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民医連新聞

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第46期第2回評議員会特別学習講演 核兵器廃絶を自分たちの運動として

 第46期第2回評議員会では、ノーベル平和賞を受賞した、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の田中熙巳(てるみ)さん(代表委員)が特別学習講演を行いました。概要を紹介します。(松本宣行記者)

■運動参加者全員が表彰    

 被団協の正式名称の「水」は「水素爆弾」です。ビキニ事件(1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で、水爆実験を行い、漁船や商船の乗組員が被ばくした事件)が日本の反核運動の大きなきっかけとなった経緯があり、「水」がついています。直接の原爆被害者だけでなく、原爆投下直後に、捜索や救助で市内に入った入市被ばく、市外で看護などにあたった人も含めての被害者団体です。被団協は被ばく者の団体の協議会ですから、今回のノーベル平和賞は、運動に参加した被ばく者全員が表彰されたのです。
 代表委員が3人いるのは、広島・長崎から2人、首都圏から1人を選出するためです。私は現在、埼玉県在住で、代表委員を務めています。被爆者であり、全日本民医連顧問で医師の肥田舜太郎さん(故人)が埼玉の会の会長を務めた時期がありました。
 ノーベル平和賞の式典に、参加できる代表団は30人でした。日本は47都道府県あり、被ばく者は韓国やブラジルなど、他国にもいます。50人は参加できるようにしてほしかったです。

■情勢が光を当てた      

 ノーベル平和賞候補として、被団協があがったことは、過去に何度かありました。1985年が最初で、5の倍数の年で過去4回(85年、95年、05年、15年)、名前があがりました。しかし、今回は5の倍数ではありません。晩さん会でノーベル研究所の所長から聞きました。現在の世界情勢は本当に厳しく、核大国のロシアがウクライナに侵攻し、核兵器でどう喝しています。この情勢が被ばく者に光を当てることになりました。

■掘り起こされた被爆者たち  

 敗戦後の7年間、日本は米軍を中心とした連合国軍総司令部に占領され、その間は原爆被害を訴えることができませんでした。この7年間で被爆者は日本中に散っていきました。生活の場は広島・長崎とは限らないわけです。広島・長崎以外の地でも、被爆者たちは苦しみました。当時は医師も被爆者の症状がわかりません。診断名がつかないこともありました。被爆者が苦しんでいても、対策はなかったのです。
 日本政府は占領終了後も被爆者のことを考えず、自治体の関心も戦後復興でした。ところが、ビキニ事件が起き、国内で大問題になったのです。ビキニ事件がなければ、広島・長崎の被爆者は、忘れ去られていたかもしれません。
 1955年8月6日、広島で第1回原水爆禁止(原水禁)世界大会が開かれました。大会には原水爆禁止を求める署名が、日本で3238万筆、世界で6億7000万筆集まりました。その後1年間で全国の被ばく者が掘り起こされ、第2回原水禁世界大会(長崎)に集い、発足したのが被団協です。

■軍国少年でも許せなかった  

 原爆投下時、私は13歳で、戦争中に母子家庭になっていました。母と私たち5人家族をささえてくれた、叔母2人とその家族が原爆で亡くなりました。私は軍国少年でしたが、戦争といえどもこんな残酷な殺し方や傷つけ方は、許されないと思いました。
 原爆被害の根本原因は、日本が戦争を起こしたことです。被団協は79年の歴史で、原爆被害は国が援護しなければならないという立場を貫いています。人道に反する核兵器をつくること、使うこと、持つことは絶対に許されません。これが被団協の課題の中心です。
 日本国内では被爆者の援護に関する法律を3つ成立させました。しかし、これらは放射線の被害に限定されており、戦争の被害の一部にすぎません。国連では核兵器禁止条約もできました。

■私たちがいなくなっても   

 現在、被爆者の平均年齢は85歳といわれています。被爆者はやがていなくなります。私たちがいなくなっても、核兵器が存在する限り、人類は核兵器廃絶運動を、続けなければなりません。
 世界には1万2000発の核兵器があり、ただちに発射できる状態の核ミサイルが4000発あるといわれています。可能な限り早くなくすことが、私たち、とりわけ若い人たちの仕事だと思います。若い人たちの時代に、核兵器が使われるかどうかの問題です。自分たちの問題として、これからの運動を考えてください。
 「どうしたらいいですか」と聞かれることがあります。若い人たちが試行錯誤しなければ、核兵器はなくならないでしょう。

(民医連新聞 第1824号 2025年3月3日号)

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