阪神・淡路大震災から30年 「人間の復興」は被災者一人ひとりの人権 全日本民医連前会長 藤末衛さんに聞く
1995年1月17日、未明の都市部を震度7の直下型地震が襲った、阪神・淡路大震災。あれから30年をふり返り、次の防災へ何を伝えるか―。当時、兵庫・東神戸病院(東灘区)に勤務していた、全日本民医連前会長の藤末衛さん(医師、神戸健康共和会)に聞きました。(丸山いぶき記者)
震災直後、被災を免れた当院には、外傷、骨折、圧死、生き埋めからの救出と、次々患者が搬送されてきました。外来フロアは患者であふれ、死亡確認は昼までに70人にのぼりました。
DMATなどの初期救援組織もない時代。150床、職員150人の当院が、震災病棟をつくって最大330人の入院必要患者を受け入れ、発災3日目には地域回りまで始められたのは、医療材料も支援者(最大1日310人)も、全国の民医連事業所から続々集まったからでした。
被災者との運動による前進
30年前に比べれば、社会は大きく変化しました。国や自治体の認識もずいぶん変わりました。
当時は、自然災害による個人の被害は「自助努力による回復が原則(村山首相)」「地震だから個人補償というのは論理の飛躍(笹山神戸市長)」と、平気で言われました。その一方で、企業や銀行救済には財政出動する国、復興のシンボルに神戸空港建設を掲げる神戸市。同市の一方的な被災都市計画(便乗型都市開発)に、ついに住民の怒りの要求運動が始まりました。
震災救援・復興兵庫県民会議が立ち上がり、個人補償を求めた署名は1年半で100万人を突破。96年総選挙で各党に個人補償公約を掲げさせ、97年神戸市長選では、民医連の故大西和雄医師が大健闘。運動なくして被災者の復興なし、98年には、被災者生活再建支援法ができました。
貧困の濃縮と復興災害
しかし同法は、阪神・淡路には遡及されず、震災アスベスト被害や挫滅症候群などによる震災障害者、借り上げ復興住宅からの強制退去などの問題も残されました。避難所や仮設住宅、復興公営住宅には経済力のない人が残され、貧困が濃縮。地震による生死も復興でも、立場の弱い人に被害が偏りました。格差を見極め公正の視点で支援することが求められます。
新長田駅南再開発、神戸空港などの事業の失敗も明らかです。大型開発は地元の中小企業に恩恵がなく、地域循環経済は見込めません。低成長期に入った経済状況を見通した復興方針だったのか。国も自治体も、復興政策が問題を生む復興災害の検証をすべきです。
世界標準の人権で防災運動を
運動で気づいた重要な視点が人権です。98年に国が出した、社会権規約にもとづく国連審査への報告には、阪神・淡路大震災が欠落。私たちは、室温40度超にもかかわらずエアコンもない夏の仮設住宅の実態を告発し、その改善や住宅再建への個人補償を国に求める国連勧告を引き出しました。
各被災地で今後、阪神・淡路が経験した問題も顕在化するでしょう。石川・能登半島では再び「創造的復興」などと、被災者一人ひとりに寄り添わない、間違った復興方針ですすもうとしています。
被災者の要求は災害によって、そして個人によって違います。だからこそ個別性を重視し、被災者の声を聞き、被災実態を客観的なデータで示すことが重要。世界標準の人権にもとづき、災害多発、超高齢、人口減少、経済低成長時代の「人間の復興」をささえる、防災運動をすすめましょう。
コミュニティー防災では、民医連の共同組織の、安心して住み続けられるまちづくりが重要です。災害に強い民医連の教訓として確認し、活動の軸にしましょう。
経験を風化させず生かす
メモリアルデー企画に多数参加
兵庫民医連は1月17日、長田ウオーク企画(震災復興長田の会などの主催)とメモリアルデー集会(震災救援・復興兵庫県民会議主催)を、兵庫民医連2年目職員研修に位置づけ、45人の2年目職員ほか、多数が参加しました。
東神戸病院では同日午後、当時を知る世代と知らない世代が語り会う座談会「震災から30年。あの経験を風化させず、今に活かそう」を企画。職員や地域から76人が参加しました。院長の遠山治彦さんや当時の事務長、外来看護師長らの体験談に、「想像を絶する。自分に何ができるのかと怖くなった」と涙する知らない世代の看護師。会場の知る世代の先輩から「一人じゃないから大丈夫」と声がかかる場面もありました。
(民医連新聞 第1823号 2025年2月17日号)
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