日本被団協がノーベル平和賞を受賞 被爆者と伴走してきた民医連
昨年12月10日、ノルウェー・オスロで、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が行われました。30人の代表団を医療面でサポートするため、全日本民医連副会長の山田秀樹さん(医師)も現地へ赴き、国内では各地で被爆者とともに受賞を祝い、署名、宣伝などを行いました。被爆者の元職員と、被爆者医療に長年かかわる医師、2人に思いを聞きました。
被爆の体験を語り伝えたい
埼玉県原爆被害者協議会 しらさぎ会・副会長/埼玉協同病院・元看護師
木内恭子(ゆきこ)さん(88)
ノーベル平和賞は、先輩方のがんばりに授与されたもの。私たちはこれから、うんとがんばらないといけないと思っています。
9歳の時、 広島で
1945年8月6日の朝、私は小学4年生(9歳)で、父が勤めていた広島刑務所の官舎から、分校とされた銭湯(爆心地から約2km)に登校。女の子7人で表に出て石けりを始めたところでした。
突如、ピカッ―。ものすごい光を浴びて、私は気絶しました。ひどく息苦しさを覚えながら、何とか息を吹き返したんだと思います。真っ暗で何も見えず、何度か瞬きして目を開くと、周りは全部潰れ、私一人だけがポツンと座っていました。何があったのか、わかりません。
街の方からは、ボロボロになった人たちが、群れをなして迫ってきました。そのなかから「ゆっこ!」と呼ぶ声が。他の人同様、やけどして真っ赤な顔で、髪は縮れ、服はボロボロ、誰かわかりません。でも「ゆっこ」と呼ぶからには知っている人だろうと思い、その人の手を取り歩きました。刑務所の門まで来てようやく、2つ上の兄だったと気づきました。
私の家族は幸い、全員いのち拾いし、兄も治療を受けて助かりました。でも、街の人たちは逃げ場もなく、川は一面、遺体でいっぱいでした。官舎が潰れて河原で野宿している間毎日、遺体を小舟で運び、刑務所の焼却炉で燃やす光景も見ました。煙突の煙を見ては「極楽に行ったね」と。亡くなった友たちは、どんな大人になっていたか、節目のたびに思います。
肥田舜太郎さんの言葉
「被爆者は長生きすることが使命」。被爆医師、故肥田舜太郎先生の言葉です。受賞を知り、昨年10月17日には仲間と、肥田先生の墓前に報告しました。私も、もう少し長生きして、求めがあれば、行ける範囲にはどこへでも行って、語りたい。生きている人が、核兵器のない世界の実現を訴えていかなければなりません。(聞き手・丸山いぶき記者)
変化する被害に寄り添い
東京・健生会・医師/全日本民医連被ばく問題委員会委員/反核医師の会・代表世話人
向山新(あらた)さん
世界の目が被爆者に
日本被団協のノーベル平和賞受賞を知ったときは、ともにたたかってきた被爆者のみなさんが受賞して、とにかくうれしかったです。民医連は被爆者医療、被爆者訴訟など、さまざまな場面で被爆者とともにありました。私も被爆者健診に40年かかわり、反核医師の会に参加してきました。今回の受賞で、世界の目が被爆者に向けられて、被爆の実相がひろく知られるようになることは、核兵器廃絶の運動に、重要なことです。
過去と現在に共通する考え
被爆者医療は、病気を治療するだけではありません。被爆者のからだ、こころ、暮らしを見つめ、寄り添うものです。この考え方は被爆者医療にかかわった当初、先輩たちから教わったことですが、現在も変わらないと思います。
被爆から80年という歳月は、被爆者医療の課題が変化していった歴史でもあります。放射線による白血病の多発が大きな課題の時代から、がん多発にと課題が変化してきました。その後の集団訴訟のたたかいのなかでは、非がん疾患も被爆者に多いことを明らかにしてきました。近年は、被爆者の高齢化に伴い、1人暮らしの多い被爆者の介護の問題にも目を向ける必要が出てきました。また、被爆者健診では、二世の受診が増えてきています。高齢化しつつある二世の健康問題も今後の課題です。
関心を持って
被爆者医療の担い手も、後継者づくりが課題となっています。反核医師の会では、医学生や若手医師の活躍がひろがりつつあります。今回のノーベル平和賞受賞を機に、多くの若い職員にも被爆者の問題、核兵器廃絶の問題に関心を持ってもらえたらと、期待しています。(聞き手・松本宣行記者)
(民医連新聞 第1821号 2025年1月20日号)