〈第16回看介研記念講演〉看護介護とどう出逢ったか 水俣病に向き合う力をくれた看護の輝き
第16回看護介護活動研究交流集会で、熊本民医連の医師、板井八重子さんが、「看護介護とどう出逢ったか~50年の医師生活の中で~」をテーマに記念講演をしました。講演の概要を紹介します。(長野典右記者)
1974年1月に水俣診療所が開設し、私は翌年10月に赴任しました。当時の看護師長、上野恵子さんが始めた、水俣病患者の訪問看護はひときわ輝いていました。医療不信さえ持っていた患者の家を訪問し、リハビリを促し、感情が豊かになり、機能回復で生活改善につながることもありました。
「メチル水銀濃厚汚染地域における異常妊娠率の推移についての疫学的研究」でメチル水銀によるヒト胎芽期死亡の証明を行い、2001年に国際水銀会議に報告しました。2005年、母子手帳への妊娠中の魚介類摂取に対する警告記載につながりました。水俣病というライフワークをプレゼントしてくれたのは、訪問看護を続ける看護集団でした。
■尊厳を守る看取り
熊本市転勤後、くすのきクリニックではじめて経験した在宅での看取りで、患者の尊厳が守られることを痛感しました。次第に介護施設での看取りが増え、点滴の実施や中止、家族と介護スタッフへの配慮など、その心構えと医療と介護の接点、難しさと大切さを学びました。
父親は96歳で認知症、肺がんで、告知せずに亡くなりました。元気だったころは仕事をしながら、母とともに私の仕事をささえてくれていました。介護サービスを利用したものの、デイサービスの拒否が多く、ケアマネジャーは事例検討会を開催。父は農業が得意だったことを伝えると、施設の農園の「アドバイザー」役を提案され、その後はお迎えを待ち、見違えるようになりました。父は自分の尊厳を守られたと感じていたと思います。人生の最期に向き合う、向かい方も進化していく、そんな看護・介護の役割に誇りをもってほしいと思います。
■白衣を脱いで
水俣病患者は、家族と住めないときや医療的ケアが必要となったとき、「明水園」に入所します。この明水園は1971年に三木武夫初代環境庁長官の提案で設置した、重度心身障害者施設(厚労省からの補助金で運営し、費用の負担はない)です。
ある胎児性水俣病患者は胃瘻(いろう)・気管切開を施行しても、「明水園」に入所せず、これまでのように水俣病の患者としてグループホームに住み地域のなかで生き、水俣病を伝える活動を続けたい強い意思をもっていました。
支援者は、重度の障害者がグループホームで暮らしている北海道の事例に励まされ、行政が仕掛けてくるハードルに抗(あらが)って、本人の意思を行政に認めさせることができました。
彼のいのちと尊厳をささえるために水俣市内の医療機関・看護介護事業所のネットワークがひろがりました。水俣協立病院は、訪問診療と訪問看護の一部を担当しています。私たちも地域の一員です。多くの人とつながって水俣を在宅ケアのメッカにできたらと思います。3年前からパート医になり週に1回白衣を脱いで、患者・支援者と接し始めて見えてきたことです。
■ベトナムを訪問
今年8月18~24日、枯葉剤、水俣病、カネミ油症の総合検証のため、ベトナムを訪問しました。現地では同国トップの研究者と懇談しました。ベトナム戦争が終わって50年たちますが、アメリカが散布した枯葉剤による健康被害の原因メカニズムはわかっていません。枯葉剤被害で下半身がつながった結合双生児として生まれ、その後分離手術をした、弟のグエン・ドクさん家族に会いました。これからも前向きに生きていきたい、家族のために働き、子どもの大学卒業まで支援し、枯葉剤と戦争、平和について語り続けたいと表明しました。励まされ、国際交流も大切と認識しました。
■太い絆に
社会運動のたたかいが前進するためには、「当事者」「専門家」「支援者」の三つの力が必要と環境経済学者の宮本憲一さんは指摘します。そして一人ひとりのいのちを大切にするために、戦争は対極にあるものです。
学びに磨きをかけて、多くのまだ出会っていない、優れた他者の存在を求め、出会った人と太い絆にするためにつながる一致点を見つけていきましょう。
(民医連新聞 第1819号 2024年12月2日・16日合併号)
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