連載 いまそこにあるケア 第14回 気づける距離であせらずあきらめないこと 文:杉浦絵理
私は、勤めて4年目になる通信制高校の教員です。「この生徒は、ケアラーではないだろうか」。教員として働くなかで、そのように思われる生徒に何度か出会ったことがあります。
一人のある生徒のことです。本人が家族への情緒的なケアで悩んでいると知った私は、支援団体の情報を伝えました。結果的にその生徒は、団体につながることはありませんでした。正直なところ、本人の選択にどこか納得してしまう自分もいました。もちろん「あなたの置かれている状況はケアラーだと思う」と伝えることはゴールでもなんでもありません。とにかくもどかしく、一人よがりな気持ちを感じたことを覚えています。今ふり返れば、私自身が“あせっていた”のだと思います。その生徒は、学校に来るだけでも精いっぱいで、新しいコミュニティーに踏み出すことが困難な生徒でした。通信制高校には、通学でエネルギーを使い果たす生徒も少なくありません。抽象的な「ケアラー」像ではなく、目の前にいる生徒の性格や背景を知ったうえで、根気よく向き合う必要があったのです。
この経験から、「先生、実は困ってるねん」と、生徒のタイミングでヘルプを出せる“関係性づくり”が必要だと感じました。そしてこの関係性の構築が、実は難しいことであるということも現場で痛感しています。たとえば通信制高校の通学ペースは十人十色で、次に会える日はいつなのか、はかりきれない部分があります。それでもなお、定期的にかかわる教員が、生徒の変化に敏感に気づける存在であるべきだと、私は信じています。
どんな話であっても、学校という場が、その人らしく過ごせる空間であることは大前提です。その土台になるピア(対等な仲間)の空間が秘めるパワーは計り知れません。暗い表情をしていた生徒が、友だちができたことでぱっと笑顔になる瞬間を身近で見てきました。こうしたつながりを築く場づくりも、私たち(とくに通信制高校では)教員の大切な仕事だと思っています。
必要な時に向けて、「あせらず、あきらめない」かかわりを。細やかに、継続的に、生徒一人ひとりを見守る。私たち教員は、ケアの専門家ではありませんが、生徒とともにいるからこそ、かけられる声がたくさんあると信じています。たとえばそれは、朝のあいさつの場面からもう「はじまっている」と思うのです。
すぎうらえり:通信制高校教員
(民医連新聞 第1816号 2024年10月21日号)
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