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民医連新聞

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私がここにいるワケ 地域の困難な人にかかわり続け無差別・平等の医療を 千葉・船橋二和病院 理学療法士 髙木 秀明さん

 民医連で働く多職種のみなさんに、その思いを聞くシリーズ12回目は、発達障害認定理学療法士の髙木秀明さん(千葉・船橋二和病院)です。(長野典右記者)

 髙木さんは入職14年目。高校2年生の進路を決める頃、500グラムで生まれ、1年間NICU(新生児集中治療室)生活を経て退院した、いとこがいました。「母や叔母がその子のことで苦悩する姿を見て、障害のある子を育てる親の役に立ちたい」と思うようになりました。いとこが発達センターなどのリハビリを受ける際に見学し、リハビリを通して子どもにかかわる仕事ができると、理学療法士の道を選びました。

■訪問リハでの経験

 リハビリの役割は体を動かせるようにすることも大切ですが、どう生きることを守るかも大切。発達障害リハにかかわり、忘れられない経験があります。
 生まれつき重度の障害がある4歳の子どもの訪問リハに行って部屋のなかを見た時、医療機器ばかりで、子どもが生活している部屋という雰囲気がありませんでした。子どもにとって、生きる・生活するなかに「遊ぶ」ことが大きな部分を占めています。それは、どんなに重度な障害を持っている子どもでもいっしょのはず。院内にある音の出るおもちゃと動物の形をしたバランスボールを抱えて訪問。おもちゃで遊ぶ子の姿を家族に見せたいとの思いでした。訪問先は生活しやすいように引っ越した段差の少ない新築の家。しかし、車いすで生活するその子が自分の足で床を踏む機会はありませんでした。動物のバランスボールを通して遊ぶなか、子どもが初めて床に足をつけたことにとても喜ぶ母親の姿を見て、万感胸に迫る思いになりました。その後、母親がおもちゃを購入して、子どもと遊ぶようになったと聞きました。
 障害のある子と親で外出するイベントを企画運営しているなかで、保護者と子どもが当たり前にできることの大事さを知る機会がありました。
 以前、重度の障害で亡くなった子どもがいました。家、学校、病院にしか居場所がなく、学校では車いす、自宅ではベッドの生活でした。「もっと自分がかかわれたのでは」との思いが、髙木さんのなかにあります。

■就職のきっかけ

 髙木さんは、民医連のことは就職するまで知りませんでした。就職先を決める時に、各病院のホームページを見ながら、「小児リハ」という言葉で検索し、それにヒットしたのが同院でした。病院を見学し、就職を決めました。民医連綱領にある無差別・平等の医療の中身は、その後の医療活動のなかで理解できるようになりました。「障害をもった子どもを差別(区別)する社会ではいけないし、困難な子どもや親をサポートすることで、これまでやりたかったこととマッチし、無差別・平等の医療に共感できた」と。現在、県理学療法士会の障がい児・者支援部長を務め、特別支援学校ではPTAでの講演、講習会なども積極的に参加しています。
 同院の小児科医が30年以上前からとりくんできた発達外来を見て、全力で挑む、妥協を許さない姿勢に共感してきました。その医師の背中を見ながら、地域の子どもを取り巻く環境を少しでも良くしたいとの思いを、学びとることができました。月1回夜に地域に向けた学習会を企画しています。

■ひろく対応できるリハに

 職場には50人のリハ職員がいます。職場づくりで掲げているのは、(1)患者ファースト、(2)責任をともなう自由。働きにくい職場ではなく、職員一人ひとりが責任感を持ちながらのびのびと働くことが大切。子どものリハビリも地域包括ケアシステムのようにどこでも近くでリハビリができるような社会になれば。「地域の実情を知り、地域にかかわり続けているから、今ここにいる」と語ります。
 世代を越えてひろく対応できることこそ、リハビリの真価。「スペシャリストになるには、あらゆる挑戦が必要。これでこそ無差別・平等の医療を提供できる」と笑顔で語りました。

(民医連新聞 第1811号 2024年8月5日号)