原爆被害者救済の一翼を 「黒い雨」を考える岡山の会結成
4月20日、岡山民医連や岡山県原水協、岡山「被爆2世・3世の会」が構成団体になり、「黒い雨」を考える岡山の会を結成。40人が参加し、岡山県内の「黒い雨」被爆者の掘り起こしと被爆者健康手帳(以下、手帳)申請支援など会の目的、実行委員会体制、具体的な行動計画を決め、フリージャーナリストの小山美砂さんが「なぜ『黒い雨』被爆者を支援するのか」をテーマに記念講演を行いました。(長野典右記者)
岡山県原水協の平井昭夫さんが、「今年はビキニから70年、来年は被ばく80年の年。ビキニ被災者もヒバクシャとも認定されず、いまだに裁判でたたかっている。『黒い雨』裁判で岡山でも運動の一翼を担える会にしたい」とあいさつ。岡山「被爆2世・3世の会」の志賀雅子さんが、会結成の趣旨説明、活動計画の提案をしました。21年7月に「黒い雨」裁判は広島高裁で勝利が確定し、22年4月から新しい被爆者認定制度が開始。24年3月までに、広島県内では、5696人が新しく認定されました。岡山県では23人が申請し、3人が審査中、20人に手帳を交付。岡山は被爆地広島の隣県であり、会は新しい認定制度での被爆者の掘り起こし、手帳の支援や、ウクライナでの戦争やパレスチナでの紛争で、核兵器の使用の危機がかつてなく高まっている現在、被爆の実相、非人道性を明らかにしていく、核兵器廃絶運動の強化を訴えました。
今ある問題を伝える
記念講演で小山さんは、岡山で「黒い雨」を考える会をつくると聞いた時の思いをふり返り、「被爆地以外で会ができた意義は深く、被爆者援護を推しすすめる役割は大きい」とのべました。小山さんが原爆報道を始めたきっかけは、大学3年生の時に広島で被爆証言を聞き、原爆は現在進行形と認識したこと。昔のことでなく、今ある問題を伝えるスタンスで報道の仕事につきました。
「黒い雨」とは、原爆投下後、広島、長崎に降った放射能をおびた雨で、火災のススが混じり、黒く汚れていました。これまで作成された降雨域は3つで、当初、気象台がつくった「宇田大雨雨域」に援護が認められましたが、外側で雨を浴びた人たちが運動をはじめました。
被爆者援護のためには3つの段階があります。(1)一定の基準を満たせば被爆者と認定、(2)法令が定める病気になると健康管理手当を支給、(3)特定の病気になり、放射線起因性などが認められることです。「黒い雨」を浴びた人も被爆者だと認めてほしいというのが「黒い雨」訴訟と説明しました。
指定区域分け分断
小山さんは、「黒い雨」訴訟の多くの原告に出会い、多くの証言を得てきました。指定区域を分ける線引きによる分断で、「川を挟んで雨の降り方が変わるはずがない」「雨が援護対象区域のように卵型に降るのか」と住民運動がはじまりました。「黒い雨」が降ったことはなかったとされた村や、軽視される低線量被ばくで、運動は困難を極めました。
「黒い雨」を浴びた被爆者全員に手帳をと、住民たちは2015年11月、「黒い雨」訴訟を提訴。原告は体験を詳しく証言したものの、国は証言を虚偽と退け、「科学的合理的な根拠」を要求。審理中に19人の原告が亡くなりました。そして広島地裁と高裁で勝訴し、判決の確定で救済が拡大しました。原告84人に手帳が交付されました。しかし、今年の2月末で、申請6191件中、認定は5550件で、280件が却下(審査中、取り下げを除く)に。新制度には、(1)広島の「黒い雨」に遭ったという雨域の問題、(2)11種の障害を伴う一定の疾病という差別の問題があります。雨域外で「黒い雨」にあった人が却下されたこと、11種の疾病にはパーキンソン病は含まれておらず、認定されずに亡くなった人もいます。
戦後は終わっていない
「なぜ原爆被害者を救うのか。それは今も原爆に殺され続けているのであり、国に援護を認めさせることで戦争による被害だと認めさせ、二度とくり返さないと法的に誓う、戦争責任の追及であると考えます。疑わしきは切りすてる社会でいいのか。新しい戦前と言われる現在、『戦後』さえまだ終わっていません。原爆被爆者への救済を通じて、戦争にあらがっていきたい」と締めくくりました。
同会は6月1日、手帳申請に向け、岡山民医連のSWや弁護士を中心に電話相談会を行いました。
(民医連新聞 第1807号 2024年6月3日号)
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