第46回定期総会記念講演 あわてず、ぶれず あきらめず いのちの平等の実現を 沖縄民医連 元会長 仲西 常雄さん
2月22日、全日本民医連の第46回定期総会で、沖縄民医連元会長の仲西常雄さんが「沖縄民医連の医療活動 米軍占領下の医療状況と民医連建設の歩み」と題して記念講演しました。概要を掲載します。(稲原真一記者)
沖縄の歴史は、日本やアメリカの国策に翻弄されてきました。450年間、琉球王国であった沖縄は、1879年に武力で日本に併合され同化政策が敷かれます。そして日本が侵略戦争をくり返すなか、太平洋戦争でありったけの地獄を詰め合わせた沖縄戦が行われました。敗戦後1952年に、沖縄は日本から切り離され、27年間の苦難の米軍占領が始まります。
■なんでもありの米軍統治
米軍占領下の沖縄では、軍属の高等弁務官が戦前の天皇のように振る舞う、なんでもありの時代でした。米軍は戦後すぐに人権無視の強制収容で住民から土地を奪い、現在ある米軍基地の7割を建設。土地を失った地主は4万戸、強制立ち退き1万2000戸という国際法違反の占領でした。
当時はパスポートがなければ渡航もできず、言論や出版、労働組合も制限され、公民権や自治権までもが剥奪、妨害を受け、経済もアメリカが支配しました。裁判権は高等弁務官が握り、米兵による殺人なども無罪になりました。
53年には「土地収用令」が出され、銃剣とブルドーザーによる土地の強制接収が始まります。これに抵抗した伊江島の運動が、島ぐるみのたたかいへと発展。アメリカの不当な要求をはねのけ、後の復帰運動や、現代のオール沖縄へと運動を引き継いでいきます。
医療では、50年代に米兵の伝染病予防ために保健所がつくられる一方、米軍統治や基地の影響で県民にはマラリアやポリオ、赤痢が流行するなどの被害が出ました。ベトナム戦争時にはアメリカから風疹が持ち込まれたほか、医薬品の販売規制で風邪薬すら買えない事態に。医療にかかるには高額な支払いも必要で、「金の切れ目がいのちの切れ目」の状況でした。
その後、沖縄県民は68年に革新共闘会議を結成し、主要な選挙で大勝。72年に復帰を果たしますが基地負担は変わりませんでした。
■たたかいから生まれた
民医連は68年の総会で空白県克服を議論し、全国で建設カンパも集めて70年12月14日に沖縄民主診療所が誕生しました。診療所は9人の職員(うち医師2人)でスタートしましたが、県民の医療への不信は根強く、初月の1日平均患者数は8人でした。
その後、診療所が行った往診、夜間診療、訪問看護、職業病認定などの民医連では当たり前の活動が、沖縄ではすべて初めてのとりくみ。新聞などでも話題になり、地域の信頼を集めました。まさに民医連の出番という状況でした。
72年には沖縄医療生協を結成。病院建設にとりくみますが、オイルショックで費用が高騰し、建設は延期になりました。しかし、住民の署名活動や対県交渉、復帰運動で築いた革新自治体との関係のなかで融資が決定し、1976年に沖縄協同病院を開院。いのちを守る運動とたたかいのなかから沖縄民医連は生まれました。
その後、県民の要求に応えながら事業拡大をすすめますが、急速な拡大で資金難や県連の機能不全などの困難が。そのたびに米軍占領下で培われたたたかいの土壌、住民や職員の力をささえに議論をくり返し、克服してきました。
■国民と仲間を信じて
日本は新自由主義構造改革で格差や社会不安が増大し、戦争する国への誘導がすすんでいます。しかし、オール沖縄のたたかいが示す市民と野党の共闘で政治革新のうねりをつくれれば、いのちの平等はかならず実現できます。
復帰から52年。憲法の上に日米安保条約があり、辺野古新基地建設は民意を無視して代執行されました。しかし、「沖縄の心」まで埋め立てることはできません。沖縄県民は国策に翻弄されながらも、不公平、不条理を許さない声をあげ続けています。
勝つことはあきらめないこと。あわてず、ぶれず、あきらめず、国民の良識と仲間を信じて、みなさん、これからもいっしょにがんばりましょう。
(民医連新聞 第1803号 2024年4月1日号)