連載 いまそこにあるケア 子ども・若者ケアラーの多様な声を届ける 第1回 「ヤングケアラー」という言葉と出会って 文:河西 優
小学校高学年の頃、母が統合失調症になりました。私のような人は社会的には「ヤングケアラー」と呼ばれます。「ヤングケアラー」は「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っているこども(こども家庭庁)」です。日本ではここ数年で社会的注目を集め、2023年からはこども家庭庁による支援が始まっています。家族をケアの主な担い手とする社会制度や風潮が残る一方、ひとり親や共働き家庭の増加などを背景に時間的にも人員的にも余裕がない家庭では、年齢や属性に限らず誰もがケアの担い手になり得えます。子どもや若者がケアを担うことは、人生の初期段階から、学業・進路、仕事、家族形成などで制約や不安に直面する可能性を意味します。
私がこの言葉と出会ったのは2018年、大学3年生で卒業論文の構想を練る時期でした。自身の経験を知らせていない指導教員から、ヤングケアラーに関する書籍を紹介されました。言葉の定義を知るだけではピンときませんでしたが、周りにケアについて話しづらいことや必要とされることの依存性にあらがう難しさなど、事例に登場する当事者の心情が自分と重なりました。
「ケア」という言葉と出会って、徐々に自分の経験がクリアになってきました。たとえば、私の中学時代を叔母が記録したメモには「(母が)学校を休ませる、勉強をさせてくれない、本人(私)が母親を病的に怖がる」とあり、当時は周囲の大人から「虐待」や「ネグレクト」という言葉を浴びせられていました。しかし、私は長年それらの言葉に引っ掛かりを感じながら、自分の状態をうまく表せずにいました。当時、母に精神疾患があるとはわかっていませんでしたが、「母は好きで私をこんな状態にしているわけではない」となんとなく理解していたため、「虐待」のイメージ(意図をもった行為として親の責任を問うイメージ)とそぐわなかったのです。時間がたった今は、母自身も余裕をなくし「ケア」を必要としている状態だったのだとわかります。
もちろん私とは違う思いを抱いている当事者もいるでしょう。ひとつの経験だけでは見えない社会の複雑さがあることを、忘れてはならないと感じています。この連載が多様なケアラーの声を通じて「ケア」とは何か、みなさんとともに考える機会になればと願っています。
かさいゆう:立命館大学人間科学研究所補助研究員/YCARP発起人
(民医連新聞 第1803号 2024年4月1日号)
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