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民医連新聞

民医連新聞

運動でつくりあげる 核兵器のない世界

 昨年11月27~12月1日、米・ニューヨークの国連本部で、核兵器禁止条約第2回締約国会議が開かれ、「核抑止力」論打破への挑戦と、世界の核被害者支援に向けた具体的な国際協力などが確認されました。今年は、日本の原水爆禁止運動の契機となったビキニ水爆被災から70年の節目でもあります。核兵器のない世界をつくるカギ、市民運動の展望は―。2人の民医連関係者の体験談です。

寄稿
よりよい国際規範へ
市民社会が育てる核兵器禁止条約
河野絵里子さん

発展途上の条約づくりに参加

 核兵器禁止条約第2回締約国会議では、名前も知らない多様な国の代表から発言がありました。核兵器を持たない国や小国が主体となってつくり上げた条約だということにあらためて感動しました。
 一方で、モヤモヤが残る部分もありました。各国の事情を考慮して、原子力の平和利用(原子力発電など)を認めざるを得ないこと。放射能の女性への身体的影響を取り上げる一方、結婚や出産に関する女性への差別や精神的影響の議論が不十分であること。ジェンダーの枠組みに「性的マイノリティーの人は含めない」と公言する国の代表がいること。
 正直なところ、会議に参加するまでは、核兵器禁止条約は素晴らしく、文句のつけようもないのだと思い込んでいました。しかし、まだできたばかりの条約だからこそ、市民社会からもっと意見を出していかなければいけないのだとわかりました。条約をつくりあげる過程に、市民の一人である自分も参加しているという確かな実感がありました。

被爆者、市民の運動の力

 会議の傍聴だけでなく、日本領事館前のアピール行動や国連の日本代表部大使との面会など、被爆者のみなさんとともに行動できたのも大変貴重な経験でした。
 国連の日本代表部大使との面会では、愛知県原水爆被災者の会(愛友会)の金本弘さんとともに、日本政府の条約参加を訴えました。金本さんは「会議で『核兵器禁止条約はかならずひろがっていく。核廃絶がいつか達成される』とのべられたが、『いつか』では遅い。私たち被爆者が生きているうちに、どうか核廃絶の道筋だけでもはっきりと示してほしい」と、涙ながらに語りました。
 日本領事館前でのアピール行動では、日本被団協の木戸季市(すえいち)さんの証言を英訳したものを、通勤中のニューヨーク市民に配り、「No Nukes」と訴えました。多くの人が受け取ってくれて、約50枚が一気になくなりました。木戸さんの証言の持つ力、今までの活動のすごさを、自分にも分けてもらったようで、木戸さんの証言をひろげるお手伝いができ、うれしい気持ちでいっぱいでした。

核被害に医療従事者は何を

 世界の核実験被害やウラン採掘による放射能汚染について知らなかったことが多く、学びを深めたい、もし機会があれば現地に赴いて学びたい、と思いました。
 「核被害者フォーラム」というサイドイベントにも参加し、当事者から「メディアや国際会議の場で何度も証言を求められ、疲弊してしまう。証言を消費されてしまう」という話があったのが大変印象に残っています。ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)やピースボートのとりくみによって、被爆証言が消費されないためのガイドラインや研修も整備されてきているとのこと。核被害者に対する身体的・精神的なケアは、医療従事者の役割でもあると思います。今後も情報を収集して、医療従事者としての役割を果たせるようになりたいと思いました。


こうの・えりこ 長野反核医療者の会、ABC for Peace/長野中央病院総合診療科専攻医/長野県原水協、全日本民医連の代表として核兵器禁止条約第2回締約国会議に参加


市民が守った核被害の証
第五福竜丸の保存運動
山﨑彰さん

「この船、知ってるぞ!?」

 私は中学生の頃よく、東京都墨田区の自宅から自転車で2時間南下した東京湾へ、友だちとハゼ釣りに出かけていました。ある日、道中の橋の上から傾いた白い船を発見。当時(1967年頃)、あの辺は東京都のゴミ処分場(現・夢の島)で悪臭がしました。「なんでこんなところに?」と不思議に思いながら、周りに誰もいないのをいいことに、面白がって船に乗り込み、1時間ほど遊びました。
 水面が低く、船は岸側に傾いていて、難なく乗り込めました。船はボロボロで、船底には水が溜まっていました。海底に接地していたのか揺れることもなく、危険は感じませんでした。よく覚えているのは独特の臭い。木造船で、甲板の木材に油がしみこんだような、当時たくさん走っていた都電(路面電車)の床板からも漂う、同じ臭いでした。
 その後1969年に高校1年生になった私は、3年の先輩に誘われ、平和運動にかかわるように。ベトナム戦争を背景に、世界的に反戦・平和運動が盛り上がり、大学生の兄や姉の影響で高校生も大勢参加していました。「政治の季節」と言われた時期ですね。
 1年生の夏休み前、その先輩から「高校生の集会があるから来い」と言われ、ついて行くことに。最寄りのバス停から約20分歩いた先にあったのは、1隻の船でした。「あれ? オレこの船知ってるぞ!? なんだ、中学の時に遊んだ船じゃないか」。
 それが、ビキニ水爆被災事件で被ばくした、第五福竜丸でした。

制服姿で人生初の宣伝

 集会後、夏の原水爆禁止世界大会に向け、毎週のように亀戸や新小岩の駅前に立ち、署名と募金を集めました。「沈めてよいのか」「ビキニ水爆被災の証人」「原水爆禁止への誓い」「広島・長崎・ビキニをくりかえすな」と市民が動いた、第五福竜丸の保存運動です。学ランと学帽の制服姿で、「お前もなんかしゃべれ」とハンドマイクを渡されたことも。もちろん初めての経験でした。でも、そんな高校生たちが活動を続けられるくらい、街行く人も温かく署名や募金に応じてくれました。
 高校生の運動の中心は東京都の東部、江戸川区、江東区などの高校生からなる、高校生「第五福竜丸」保存実行委員会。生まれた頃に起きたビキニ事件のことは、本や資料を読み、原水禁運動に熱心な教員を講演に招き勉強、映画「第五福竜丸」(新藤兼人監督)の上映会も行いました。ガリ版でチラシを刷るために、民医連の芝病院(現・芝診療所)と同じ建物の平和と労働会館(当時)内の東京原水協にも通いました。後のち東京民医連に就職し、芝病院を訪れて「あれ? ここも知ってるぞ」と思ったものです(笑)。

オレたちが残した船

 高校2年生で生徒会の役員になり、若者の自衛隊入隊への葛藤や反戦運動と教育の関係を問う映画「ひとりっ子」(家城巳代治監督)の上映会や、東京大空襲を生きのびた作家・早乙女勝元さんの講演会などを、生徒会で主催。母校の制服自由化も果たしました。
 当時、一部に過激派が生まれ、マスコミが過度に持ち上げ、それが今も、学生運動やデモ・街頭宣伝活動への悪印象につながっていると思います。
 第五福竜丸は保存され、実物を見ることができます。私も久しぶりに展示館を訪れ、船の大きさに驚き、存在価値を噛みしめました。今度は孫を連れて来ようかな。「おじいちゃんたちが残したんだぞ」と話しに。


やまざき・あきら 東京・小豆沢病院の元職員/1969年から本格化した第五福竜丸の保存運動に高校生の時に参加


ビキニ水爆被災と反核平和運動

 1954年3月1日、アメリカが太平洋ビキニ環礁で大規模水爆実験を行い、マーシャル諸島の人びとや、周辺で操業していた第五福竜丸(静岡県焼津船籍)をはじめ多数のマグロ漁船の乗組員が被ばく。同年、東京・杉並区の主婦らが始めた「原水爆禁止」署名運動は全国にひろがり、翌年の第1回原水爆禁止世界大会までに、当時の有権者の半数超、3158万3123筆に達した。
 第五福竜丸はその後、水産大学の練習船「はやぶさ丸」となり、67年に廃船に。市民の保存運動の末、76年に東京都立第五福竜丸展示館ができた。
 現在、日本では高知を中心にビキニ海域で被ばくした漁船員らが補償と救済を求め、裁判をたたかっている。世界の核被害者(グローバルヒバクシャ)の全容はいまだ不明。韓国の広島・長崎原爆被爆者や、マーシャル、アメリカ、キリバス、カザフスタン、オーストラリアなどの核実験やウラン採掘で被害を受けた人びとも、核兵器の非人道性を訴えている。


《ビキニ水爆被災70年関連企画の案内》

〇3・1ビキニデー(2月28~3月1日、静岡会場と一部WEB併用)
※詳細は通達第ア―850号と原水協ホームページ参照。
〇第五福竜丸展示館は、小中学生を対象に「みんなの船、第五福竜丸」の絵を公募、記念つどいも。
※詳細は同館ホームページ参照。

(民医連新聞 第1800号 2024年2月19日号)