診察室から 月桃と仏桑花とガジュマルと記憶の島で
卒業後すぐの1991年に沖縄協同病院に入職。本土復帰の年の法人創立から20年、わずか3人目のナイチャー(内地人)医師でした。患者の「ナイチャーね?」はあいさつで、方言の愁訴に首をかしげ、方言だけのお年寄りとの会話を、その子どもに通訳してもらう診察室でした。内地を対峙(たいじ)させてしまう記憶。ナイチャーを嫌うお年寄りもいるのではと案じましたが、医師の私には特になく、エコー技師の妻は「ナイチャーは嫌」と、ある認知症患者に言われたと。街では観光客でないと言うと移住組と言われます。
95年10月、米兵による少女レイプ事件に抗議する県民集会に救護班で参加。大田昌秀知事(当時)が冒頭、「いたいけな少女の尊厳すら守れなかった」とわびた時、会場が静まり返りました。日米地位協定への怒り、米軍政時代の無力感、鉄血勤皇隊の喪失感、知事の痛みを感じた気がします。
その翌月に全日本民医連青年医師交流集会を沖縄で開催。基地戦跡巡りの講師を、私たち青年医師がやり遂げました。資料集には「戦争の記憶をどう活かすか、戦場の人間の叫びや悔しさを想像し、平和を愛でる思想を組み立てよう」と書きました。
梅雨明けの慶良間(けらま)諸島へのヨットレースは非日常で別世界。レース最高齢の船長が、「特攻隊員だったが、機の不調のため出撃できず、落命せずにすんだ」と語りました。目標は、沖縄戦に向けこの美しい慶良間に集結した米艦隊で、ここは友の弔いの場所だと。
人びとの戦争・戦後の「記憶」と、施政者が望む「歴史」との緊張が、沖縄では続きます。被った人権蹂躙(じゅうりん)の記憶と、忘れさせたい意図との対立。第二次世界大戦の教訓に、人権を国際法で擁護しようとする思想があります。今、軍拡気分のなかで堅守すべき寄る辺はここかと考えます。今年、「敵基地攻撃能力により自衛隊がアメリカと共同して戦争をすれば国土は焦土と化す」と総代会議案に明記し、決議されました。沖縄には焦土の記憶があります。(横矢隆宏、沖縄・とよみ生協病院)
(民医連新聞 第1788号 2023年8月7日)