民医連結成70th② 地域と歩む「最前線」 元炭鉱労働者とともに 北海道・芦別平和診療所
全日本民医連結成70周年企画の第2回は、地域と民医連事業所の歩みに注目しました。北海道・芦別平和診療所は、かつて石炭産業で栄えた旧産炭地にあります。1954年に開設し、数多くのじん肺患者(元炭鉱労働者)の健康をささえ、看取ってきました。そして今、地域の急速な衰退、深刻な人口減少、超高齢化にも向き合っています。(丸山いぶき記者)
日本経済をささえた人たち
「1969年、17歳で三井芦別炭鉱の下請けで働くことになり、いきなり掘進(くっしん)(坑道を掘り進む)現場に配番(はいばん)された。一番びっくりしたのは、発破(はっぱ)(ダイナマイトを使った爆破)後の粉じんが立ちこめるなか、みんな平然と弁当を食べ始めたこと。自分も遅れまいと、弁当のふたを少しずつずらしながら食べた」。
そう話すのは、芦別平和診療所の30年来の患者、佐々木秀勝さん(72歳)。じん肺管理3 ― ロ、続発性気管支炎で労災認定を受けており、取材中も時折苦しそうな息が漏れます。「毎日がまさに重労働そのものだった」という炭鉱の労働現場。会社から働きを認められ受け取った、数々の表彰状も見せてくれました。
危険と隣り合わせで働き、戦後の日本経済をささえた炭鉱労働者の多くは、後年、じん肺や振動病などの労災職業病を発症しました。「しかも、儲けられなくなった企業はすでに撤退し、じん肺や振動症を診られる医療機関も限られ、衰退する地域に取り残されて、生涯苦しみ続ける理不尽さ。本当にひどい話だ」と、事務長の土屋結さんは言います。
同診療所は1980年代から、若くして亡くなるじん肺患者に接し、「なぜ死ななければならないのか」と職員で学習を重ね、患者を掘り起こし、患者会とともに歩んできました。今も、外来患者の約半数が、じん肺などの労災患者です。
『私の炭鉱遺産』
同診療所は2017年2月以降、元炭鉱労働者の患者から「私の炭鉱遺産」を聞き取り、毎週木曜午後の全職員カンファレンスで発表してきました。
当時、看護師長だった服部史子さんは、「より深く患者さんを知り、人生、生き方に寄り添って看護・医療に携わる、生活と労働の現場から疾病をみるとりくみだった。それが、職員アンケートにも表れていた」とふり返ります。
とりくみは2018年12月末まで、約2年間続けました。看護師を中心に職員約40人が102人のじん肺患者に、かつての炭坑での労働、生活、生きがいや誇りを聞き取り、患者会と共同して記録集『私の炭鉱遺産 じん肺患者 百二人の誇り』(慶文社、2019年)を発行。主導した当時の副所長・舛田和比古医師は、同書のなかで「『私の炭鉱遺産』は、私たちの宝物」「医療人としての成長にも大きな力となった」とつづっています。
抗えない地域の衰退のなか
とりくみから5年。この間にも多くのじん肺患者が亡くなりました。「ここの病室で何人もの仲間を看取ってもらったんだ。俺もここでと思っていたが…」と佐々木さん。
2021年、有床診だった芦別平和診療所は、病棟閉鎖という苦渋の決断をしました。人口1万2555人(最盛期の16%余り)、高齢化率47・7%(2020年国勢調査)。木村志穂さん(看護師長)は、「どうしようもない人口の激減、超高齢化を目の当たりにしながら、最後まで地域の人の健康・くらし、そして職員も守っていくにはどうすればいいか。医師体制がとれず、できていたことができなくなることを納得するのが一番つらい。でも、なんとか工夫していくしかない」と話します。
一方、「幸い、芦別は地域の医療機関や自治体と連携がとりやすく、役割分担をして地域を守っている。病棟で診られなくなった分、今は24時間対応できる在宅医療にシフトして、がんばっています」と木村さん。地域で唯一、在宅看取りができ、小児ワクチンを全種類打てる、そして責任をもって労災患者を診られる医療機関として、役割を発揮しています。
土屋さんは、「診療所は最先端ではないけれど、最前線」という前所長・堀毛清史医師の言葉を引用し、「10年、20年先の地域をどうデザインするのか。日本のなかでも人口減と高齢化が激しい地域で、ここでのまちづくりは全国のモデルにもなり得ると思う。自治体だけでなく企業とも連携して考えたい」と語りました。
(民医連新聞 第1776号 2023年2月6日)