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民医連新聞

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「必要とされるものを守りたい」 福島第一原発から22キロ 被災地に踏みとどまる高野病院

 東京電力福島第一原発事故からまもなく11年。同原発がある双葉郡(6町2村)には県立病院と厚生病院が1つずつ、民間病院も4つありましたが、事故で大半が休止を余儀なくされ、いまも医療供給体制は回復していません。その郡内で唯一の病院として奮闘してきたのが広野町にある高野病院。同院を運営する医療法人社団養高会理事長の高野己保(みお)さんに話を聞きました。(多田重正記者)

 高野病院は福島第一原発から南に約22キロ。建物は無事でしたが、事故発生2日後に町が避難指示を発令。停電にも見舞われるなか、入院患者をつれて避難するかどうかの判断を迫られました。
 しかし内科療養病床・精神科あわせて118床の入院ベッドはほぼ満床。高齢の患者が多く、当時の院長の英男さん(己保さんの父)は、避難で体調が悪化し亡くなる患者が出る危険を考えました。英男さんは風向きから放射性物質が飛散する方角も予測し「屋内に留まった方がよい」と判断。約90人いた職員は10数人に減りましたが、高野さんも事務長として復旧と医療の継続に尽力しました。

マイナスからのスタート

 事故で高野病院が郡内唯一の病院となったため、昼夜問わず救急患者が運ばれ、満床に近い状態が続いた時期がありました。郡内の住民は激減しましたが、避難者で周辺の人口が増加。広野町と隣接するいわき市の救急医療体制も限界に達し、高野病院まで運ばれる例も。広野町にも東電関係者や原発作業員など推定3000人(2015年)が滞在し、搬送される例もありました。
 後継者をはじめ、将来の対策を考えていた矢先の事故。「お金もない、人も足りない。ゼロどころか、マイナスからのスタートだった」と高野さん。それでも踏みとどまれたのは「病院を必要とする患者やスタッフがいる。必要とされているものを守りたい、それだけだった」とふり返ります。

民間病院であることが支援の壁に

 スタッフの確保も難題でした。行政をはじめ各方面に支援を要請しましたが、「たいへんなのはどこも同じ。一民間病院を特別扱いできない」と断られました。
 高野病院は病床増も要請しましたが、県は休止中の病院の病床数まで計算に入れ「病床過剰地域だから」と拒否。財政支援も「お金がない」と渋られました。2016年末には唯一の常勤医だった英男さんが急逝しましたが、県は民間病院であることを理由に「院長の派遣はできない」。大学病院や急遽(きゅうきょ)発足した「高野病院を支援する会」、全国のボランティアなどにささえられて難局を乗り越えました。全日本民医連も医師支援を開始しました。ところが2018年春、県は既存の民間病院への支援を断る一方、同じ郡内の富岡町にふたば医療センター附属病院を開設。「どこがお金がなかったのか。お金はあったが、民間病院に出さなかっただけ」と高野さん。行政の支援を得られず、2つの民間病院(今村病院、西病院)が再開を断念、建物も壊されました。

「賠償金は税金」と東電

 事故を招いた東電も「自分たちは悪くないという態度をつらぬく。ふた言目には『賠償金は税金ですから。しっかりした理由がないと出せません』と言うんですよ」と高野さん。原発事故で収入が激減した時期も「収入が減れば費用も減る」と強弁し、賠償金を抑える姿勢を隠しませんでした。
 「東電語録でもつくってやろうかと思うくらい」と高野さん。「唯一残った病院として、スタッフは満身創痍(そうい)で救急患者を受け入れ、病院は満床、休みも十分とれないなかでがんばったのに、そこには何の補償もない」。

「知ってほしい 思い出してほしい」

 行政の復興に対する姿勢にも、高野さんは疑問を感じています。「『福島の復興なくして再生はない』と言いますが、住民が元通りになってこその復興。それなのに県や町は、外から大きな企業や医療法人を連れてこようとする」。
 いまでは職員数も約90人に回復し、組織整備も徐々にすすんできた高野病院。しかし、医療センター附属病院をのぞけば、郡内の病院は高野病院だけ。困難は続きます。
 「全国の民医連職員への要望は」と聞くと「知っていただくこと」と高野さん。「コロナ禍で全国のみなさんもたいへんだと思います。その業務の隙間でもいいから高野病院や、高野病院ががんばっている地域のことを思い出してほしい」と笑顔で語りました。

(民医連新聞 第1754号 2022年2月21日)

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