あれから10年 私の3.11 ⑳原発2.5kmから避難したあの日の記憶 双葉町出身の原発避難者 鵜沼 久江
私は、福島県双葉町で、東京電力福島第一原発の2.5km圏内で、50頭ほどの牛を飼って暮らしていました。
前日まで、ビュービュー吹いていた北風が、あの日ぴたりとやんで、穏やかな小春日和でした。昼休みを終えた私は、牛に餌をやるには少し早く、家の周りをうろうろしていました。突然木々がざわついて、大地が揺れて、しゃがみこんでしまいました。足元の地面が幅20cmにわたり割れ始めました。夫は家の中にいました。運動場の牛は、土煙をあげて走り回っていました。揺れの中で、腹に響くような、「ドン」という音が聞こえました。東電の近くに住む人から、その音は「原発から聞こえた」と、後から聞きました。
11日夕方5時頃、原発から2km以内の住人に避難指示が出ました。2.5kmの私たちには指示がありませんでしたが、自主避難を始めました。当時、防災無線を聞いた人は逃げて、聞こえなかった人が取り残されていたことを、10年たって知りました。
12日の朝5時頃から、「30km以上のところに逃げろ!」と言われましたが、牛の世話を残していた私は、原発から10kmの浪江町津島に留まりました。そこは、津波と原発から避難してきた人であふれていました。津島に着いたその時、「原発がメルトダウンしているから、ここにいては危ない。もっと遠くに逃げろ!」と、叫ぶ声が聞こえました。
避難の3日間は、食パン1枚を夫婦2人で分けあって食べ、毛布が一人1枚支給されただけでした。
15日、原発から30km以上離れた二本松に行くことになりました。そこでは、「原発で、いい生活をしてきたお前らに、食わせるものはない!」「いまさら人に頼るな!」「原発ではすぐには死なない、双葉に帰れ!」と、言われました。私は、このような言葉のなかでも、生きなくてはならないと思いました。
18日、埼玉スーパーアリーナにたどり着きました。そこで初めてテレビを見て、津波被害の大きさにあぜんとしました。しかし、原発の状況の放送は制限されていました。アリーナには双葉町以外の人がたくさんいて、屋内はごったがえしていました。そこには、食べるもの、着るもの、なんでもありました。私は地震後、初めて一息つけました。
8月、一時帰宅が許可されました。牛舎には、白骨化した牛が折り重なっていました。これが、私の「あの日の記憶」です。
(現在、埼玉県加須市で営農、避難生活)
(民医連新聞 第1752号 2022年1月17日)
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