あれから10年 私の3.11 ⑯被災者の声に寄り添いできることを みやぎ東部健康福祉友の会事務局次長 中川 邦彦
地震発生時、私は国道45号線でバイクに乗っていました。交差点で大きな揺れが長い時間続き、倒れそうな体をささえるのが精いっぱいの状況でした。上を見るとJR仙石(せんせき)線の高架橋のきしむ音に驚きました。そして間もなく、津波が押し寄せてきました。
私は被災地の状況を記録するため、雪の降るなかカメラを片手に、津波被害による残骸や泥水で無残な光景がひろがる現場に入りました。ただぼうぜんと立ちすくんでいる人たち、うろうろと歩く人たち、片付けをしながら残骸の中から大事なものを探す人たち、それぞれの状況がありました。
翌日も被災地に入り、若いころの仕事仲間の奥さんに会いました。「主人が『2階にいるから大丈夫だ』と言って留まり、私だけが高台に避難し助かった。なぜいっしょに逃げなかったのか」と、涙を流しながら「申し訳ない」と言って悔やんでいました。
震災後すぐに被災者支援として全国の民医連や各地から支援物資が届き、炊き出しも行ってもらいました。友の会としては、坂総合病院の職員といっしょに青空健康相談会や仮設住宅での健康相談会を開催し、住宅の結露や建具の不具合など、出された問題を行政に反映してきました。災害公営住宅が建設されてからは、集会所を活用し、さまざまな団体による演芸・演奏会などの要望に応え、心のささえとしてとりくんできました。
震災から10年半、塩釜市の水産加工業は震災前の水準までには回復していません。東京電力福島第一原発の事故以来、風評被害による買い控え、販売不振が続いており、水産加工業は加工場再建のための借入金の返済に追われています。水揚げ量も減少し、さらには原発の汚染水の海洋放出も計画されています。
私も委員となっている宮城民医連復興支援会議では、毎年、災害公営住宅訪問調査を行っており、調査により入居者のみなさんが、健康、家賃、収入、近所との付き合いなどに不安を感じていることが明らかになりました。これらの声に真摯(しんし)に向き合い、いま私たちにできることは何かを考え、被災者に寄り添った活動をすすめていきます。
(民医連新聞 第1747号 2021年10月18日)