あれから10年 私の3.11 ⑨震災から学んだ人の温かみと支援
福島・わたり福祉会 秋津充宏、亜紀
(亜紀)あの大震災の約2カ月前、私たち夫婦は娘を授かりました。あの日、産休中の私はお昼寝をする娘のそばで過ごしていました。突然鳴り響いた緊急地震速報とほぼ同時に起きた大きな揺れに、娘を抱えて外へ飛び出しました。アスファルトが波打つ様子に、ただただ座り込むことしかできなかったことを記憶しています。
(充宏)通所介護で勤務していた僕は、最後の利用者送迎を終えた19時から各施設を飛び回り、必要な物資を届け帰宅したのは22時を過ぎてからでした。自宅は停電・断水だったため、避難所や車中で過ごしました。幼い娘がいることで周囲の人たちが気にかけてくれて、たくさん声をかけてもらい少し不安が軽くなりました。通所は休業になりましたが、老健施設の夜勤応援に行くことになり、落ち着ける瞬間はありませんでした。
(亜紀)避難所のテレビでは各地の被害状況が報道され、ものすごいことが起きたと混乱する中、さらに東京電力福島第一原子力発電所の水素爆発の様子が映り、空色の建物が拭き飛ぶ光景にぼう然とするばかりでした。
(充宏)この爆発事故を知ったとき、僕は「妻と娘だけでも避難させたい」と強く思ったことを今でも覚えています。慣れない土地での生活に加え、娘が幼い状況での避難生活はとても大変だろうと容易に想像がつきましたが、放射能の影響を考え、母子での避難について何度も妻と話し合いました。
(亜紀)夫との話し合い、家族のすすめもあり、私と娘は北海道の親戚宅へ避難し、約1カ月半過ごしました。避難中、娘は生後3カ月の健診を釧路の病院で受けました。離れた土地でも変わらず健診を受けられたことは、当然のことであってもその当たり前が不安を和らげ、うれしい出来事でした。親戚や北海道のみなさんの温かい気遣いをもらい、当たり前に過ごせたことへの感謝の気持ちは一生忘れません。
―あれから10年。
(充宏)僕は地域包括支援センターで地域に暮らす高齢者にしっかりと支援が届き、少しでも生活が豊かになってもらいたいと思い、日々努めています。
(亜紀)私は、ヘルパーとして住み慣れた地域で、わが家で暮らしたいと思う利用者の気持ちを、ヘルパーの立場からささえたいという思いで支援を行っています。
震災で多くの人の優しさに触れ、ささえてもらった経験を糧に、この仕事を通して困難を抱える人たちに寄り添える職員であり続けたいと思っています。
(民医連新聞 第1740号 2021年7月5日)