あれから10年 私の3.11 ⑦同じ日を生きる人たちと一日一日
宮城・坂総合病院 佐藤 美希
女川町の叔母、いとこたちが行方不明と聞き、悲しみに暮れた時、「きっと10年後は笑顔」と信じることで、一日一日を過ごすことができました。まだ叔母たちは、行方知れずのままですが、今年の3月11日、ようやくその10年目の日を迎えました。
震災直後に、脳出血を起こしたAさんが退院したのは、まだできたての仮設住宅でした。盲目の妻と二人暮らしなので、2つの介護用ベッドを入れるため、仮設住宅の2つの部屋の壁を抜き、暮らし始めました。数年後、仮設住宅は取り壊され、復興支援住宅に移りました。その後、妻が亡くなり、Aさんは少し小さくなりました。昨年の秋、体調を崩し、検査で末期のがんが見つかりました。家族の介護を受けながら、昨年末に復興支援住宅の一室で、息を引き取りました。家族といっしょに、少し泣き、この10年の思い出話をしながら、Aさんのエンゼルケアをしました。この10年、住む場所を失い、多くのものを失いながら、一日一日生きてきたAさんは、とても小さくなっていました。Aさん、往診医として10年訪問させてくれて、ありがとうございました。
震災直後に生まれた長男たちは、10歳になりました。水も食べ物も不足し、安全な場所も不十分で、多くの不安と、大切な人や場所を失った悲しみの中で、生まれてきた子どもたちは、希望のいのちそのものでした。10年がたち、2分の1成人式を迎えた時、COVID-19による休校と自粛。親も子も、たくさん悩んだ1年でした。その中で、開催された2分の1成人式では、子どもたちは、「あの時生んで育ててくれてありがとう」という言葉と、「将来の夢」を、目を輝かせながら話してくれました。いっしょに10年生きてくれた子どもたちに、たくさんささえられていました。子どもたちが話してくれた未来に、たとえどんなことがあっても、すべての人の尊厳も、希望も大切にされていることを願いました。
私は、10年たって、ようやく、職場の人といっしょに黙祷ができ、ささえてくれた人たちにお礼も言えました。
この10年、亡くなった多くの人を悼む気持ちは、今も薄れることはありません。多くの人が、大切な人や場所、ふるさとを失って、悲しみ、苦しみ続けながら、一日一日を精いっぱい生きてきました。悲しみはいつまでも残りますが、今日も明日も、傍らで同じ日を生きてくれる人たちがいることは、とてもうれしい、と思えた10年目の3月11日でした。(医師)
(民医連新聞 第1738号 2021年6月7日)