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民医連新聞

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あれから10年 私の3.11 ⑤よそ者ができる支援を考える

岩手・川久保病院 成ケ澤 学

 私は宮城県の病院で研修中に、あの大地震を経験しました。幾度となく余震が起こる中でふと目にしたのは、非常電源で付いていたテレビに映る津波の映像でした。岩手県宮古市の市役所が閉伊川河口から遡上してきた黒い波にのみ込まれる…それは高校生時代、私がボート部で汗を流したふるさとの、想像し得ない姿でした。
 5日後に盛岡の勤務先に戻ると、建物の被害はあったものの、ライフラインは復旧し、業務が行える状態になっていました。テレビでは連日震災関連の報道とCMのない放送が続いていましたが、どこか他人事のような、自分の生活とのギャップがあったと記憶しています。そして、間もなく、岩手民医連では岩手県大船渡市の支援に先発隊が出発することが決まりました。この時も、私にはどこか他人事のような感覚があり、安全の保障もない支援に出向く職員の勇気や使命感に、頭が下がりました。
 支援のルートが確保されると、全国各地の民医連職員の支援を受けながら、被災地支援へ定期的に出向くことになり、私もこれに参加しました。2011年5月以降は毎週、川久保病院からリハビリスタッフを2人派遣し、地元コーディネーターから依頼を受け、保健師から寄せられた情報をもとに避難所や仮設住宅をまわりました。心身機能や生活状況の評価内容をコーディネーターと共有し、運動の指導を行いました。また、全国から届いた支援物資の中から、杖や歩行器、手すり、膝サポーター、段ボール製簡易ベッドなどを選り分け、それらの適応判定と提供などを行い、1年後、この支援を終了しました。

 「誰かが助けてほしいと思ったとき、そこに支援をできる人がいれば、誰だって助けになれる」

 私にとっての3.11は、震災支援と対の記憶であり、さまざまな学びや出会いを得た大きな出来事でした。それでも、“他人事”の感覚は残っています。支援に参加しながら感じたことは「“他人事”と感じているよそ者にもできることがある」ということです。私の震災支援の始まりは強い信念ではなく、何気ないきっかけでした。そして、民医連職員である私たちにとって、未曽有の災害が起こったとき、そこに目を向けて、動いてみることが重要なのではないかと感じています。
 災害は起こらない方がいいに決まっています。でも起こってしまった時、よそ者であっても、自ら行動できる人でありたいと思います。(作業療法士)

(民医連新聞 第1736号 2021年5月3日)