莇昭三からきみへ 追悼行事に全国から参加 「汝の立つところを深く掘れ そこに泉がある」 “共同のいとなみ”を提唱、実践
昨年7月19日、全日本民医連会長を務めた医師の莇昭三さんが93歳で死去しました。追悼行事「莇昭三からきみへ」を3月21日に開催しました。(稲原真一記者)
「莇昭三からきみへ」は全日本民医連・石川民医連追悼行事合同実行委員会の主催。石川をメイン会場とし、全国各地をオンラインでつないで視聴しました。石川会場は職員含め92人が参加し、オンラインは約300カ所から参加がありました。
“共同のいとなみ”
その源流を引き継ぐ
はじめに実行委員長で石川民医連会長の松浦健伸さんが「莇先生は医師の社会的責任といのちの平等を訴え、その理念を実践してきた。先生の見いだした『医療は患者と医療従事者の共同のいとなみ』という哲学を引き継ぎ、いのちの平等、民医連綱領の実現をめざします。見守っていてください」とあいさつしました。
生前交流のあった、15年戦争と日本の医学医療研究会の西山勝夫さんや、医療・福祉問題研究会の井上英夫さん、核戦争を防止する石川医師の会の白崎良明さん、全日本民医連元事務局長の八田英之さん、浅野健康友の会の森尾嘉昭さんが、故人の人柄や思い出を話しました。「戦争は遠い過去のことではなく、歴史に向き合うことはこれからの未来につながることだ」と語っていた、というエピソードも紹介されました。
医師の責任
困難な人に寄り添い
石川民医連の若手職員や莇さんと長年活動をともにした職員6人が、パネルディスカッション。
城北病院・医師の原和人さんは「60年代から後継者育成と医師研修の必要性を訴え、民医連の医師集団をつくってきた」と、莇さんが後継者対策で果たした役割の大きさに言及。反核平和活動では731部隊(太平洋戦争中、日本軍に設置され、捕虜やスパイ容疑者を使って非人道的な人体実験を行った)など日本医学界の戦争犯罪を追及したことや、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)が核廃絶を決議することに大きな力を発揮したことも紹介しました。
石川民医連で初の薬剤師だった安田幸子さんは、医師の社会的責任を訴え、薬害スモン(国と製薬会社が原因を知りつつ隠蔽(いんぺい)した、キノホルムによる薬害事件。被害者1万人超)をともにたたかった莇さんの姿を語りました。
やすらぎ福祉会理事長で看護師の吉池外志子(としこ)さんは、“共同のいとなみ”の実践として特養やすらぎホーム建設運動を紹介。患者会や住民と医療・介護従事者がともに運動し、県政を動かしました。莇さんが「住民の思いに寄り添い、依拠することが大切だ」と話し、実践した成果だとふり返りました。
先輩の話を聞いた若手職員の横山加奈子さん(医師)、藤牧和恵さん(看護師)、西村結さん(事務)が発言。横山さんは「先生とかかわったひとりひとりの中に先生が息づいている。先生とともに、これからも歩んでいきます」と決意をのべました。
思いを胸に
未来へすすむ
遺族を代表し、長男で城北診療所所長の莇也寸志(やすし)さん、孫で同じく医師の米村耀(ひかる)さんがあいさつ。也寸志さんは「父はよく『汝の立つところを深く掘れ、そこに泉がある』と言っていた。その言葉通り、それぞれの足下を掘り下げ、求められることに応えていくことが、何よりの手向けになるでしょう」と呼びかけました。
全日本民医連を代表して、増田剛会長が閉会あいさつ。「先生が会長を務めた1980年代は国内外が揺れていた時代。民医連も山梨勤医協や福岡・健和会の問題など自己矛盾を抱えていた。大きな岐路に立ち、舵取りを間違えることなく“共同のいとなみ”という民医連の柱となるものを築いた。先生の歩んできた道のりから学び、未来へと生かしていきたい」と締めくくりました。
莇昭三医師の略歴
1927年 石川県白山市(旧松任)で出生
1952年 金沢医科大学・金沢大学医学部卒業
1953年 米軍内灘試射場反対運動に参加
内灘診療所所長
1960年 ポリオワクチン輸入運動に参加
1962年 城北病院院長
1963年 全国民医連理事
患者会「長生会」結成
1969年 「全国スモンの会」結成
1976年 全日本民医連医師委員長
1982年 全日本民医連会長(~92年)
1983年 山梨勤医協が倒産
1984年 全日本民医連第26回総会で「共同のいとなみ」を提起
1986年 「医療・福祉問題研究会」発起人
1987年 IPPNWで核廃絶の決議を訴える
1991年 「非核の政府を求める会」世話人
2000年 「15年戦争と日本の医学医療研究会」幹事長
(民医連新聞 第1734号 2021年4月5日)