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民医連新聞

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あれから10年 私の3.11 ②やらなくてはいけないこと

岩手 盛岡医療生活協同組合 鈴木 幸子

 東日本大震災から10年がたちました。いまだにテレビで放映される津波の映像には、胸がしめつけられ、思わずチャンネルをかえてしまいます。つらい経験をした人、今なお故郷を奪われたままでいる人たちのことを思うと言葉が見つかりません。
 私の勤務する事業所は岩手県の内陸部にあり、地震による停電や断水、ガソリン不足はあったものの、大きな被害はありませんでした。しかし、数日は患者や利用者への対応で精いっぱいでした。その時、当時の総看護師長が言った言葉が心に残っています。「私たち民医連でしょう。ここにいていいの? 早く沿岸に行って支援すべきでしょう」と。語弊があるかもしれませんが、かっこいいと思いました。民医連で働く者としてやらなくてはいけないことがある、とハッとしました。
 そこから、沿岸地域に出向いての医療支援が本格的にスタートしました。避難所での医療ニーズが落ち着いた後は、大船渡市役所から依頼を受けて、仮設住宅群での閉じこもり予防のためのサロン「はつらつお茶っこ会」の運営を岩手民医連が担うことになりました。たくさんの職員に片道2時間30分かけて支援に行ってもらいました。私も何度か出向き、「お茶っこ会」に参加してくれた高齢者のみなさんの笑顔に元気をもらいました。
 ある90代の女性の話が忘れられません。「私はね、三陸大津波、戦争、そして今回の津波を体験したの。戦争が一番つらかった。だって自分の思っていることが言えなかったんだもの。戦争は嫌だとか、行かないで、死なないで、悲しい、とか言ってはいけなかった。今はこの場所(お茶っこ会)で、つらいこと、悲しいこと、みんなで言い合えるもんね」。私たちが今、当たり前に感じていることが当たり前ではなかった時代があり、戦争という悲惨な歴史をくり返してはいけないと強く思いました。
 昭和三陸大津波は1933年に三陸沿岸を襲いました。当時、民医連の前身である亀有無産者診療所、大崎無産者診療所から、3人の医師、看護婦らが田老村(当時=現宮古市)へ医療支援に入ったという記録があります。被災者の診療を始めてすぐに、3人は治安維持法のもとで拘束されてしまいました。いのちがけで救援活動をした先輩たちの強い意志を私も受け継いでいきたいと思うと同時に、いのちが大切にされる、人権が尊重される、そんな社会をつくり続ける努力も絶対に必要だと思っています。

(民医連新聞 第1733号 2021年3月15日)