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民医連新聞

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「あの日」から10年 特集3・11 被災者と職員をつないだ「お茶っこ会」 長期的な心の支援続けたい 岩手 川久保病院

 東日本大震災による岩手県内の人的被害は、死者4672人、行方不明者1122人、合計5794人にのぼります。家屋被害は、全壊・半壊合わせて2万6077棟で、大半が津波による被害です(2017年、岩手県発表)。震災から10年を迎えて―。当時の様子や、岩手民医連が地域の人ととりくんだ活動について聞きました。(代田夏未記者)

 2011年3月11日14時46分、盛岡市にある川久保病院は震度5弱を観測。小松紅実さん(看護師)は「病院がつぶれると思うほど揺れた」とふり返ります。病棟の棚は倒れ、強い揺れで窓は歪み閉まらない状態に。電気・水道・ガスは2日半使えませんでした。
 「一番怖かったのは情報が何も入らなかったこと」と田中晴美さん(看護師)。「だから、盛岡が一番大変だと思っていた」と言います。ガソリンの確保が難しく、乗り合わせて通勤したり、自転車で往診をするなど、なんとか日常の診療を続けました。

■地域みんなでささえ合う

 沿岸部の津波の被害がわかり、岩手民医連は14日に対策本部を設置。19日には職員12人で津波の被害が大きかった沿岸部の大船渡市、陸前高田市に支援に行きました。組合員の安否確認や、避難所では被災者の話を聞いたり、リハビリをしたり、臨時の診療所も開設しました。対人関係やペットのために孤立している住民には往診もしました。小松さんは「避難所で話を聞くと『しんどいなぁ』『肩をもんでほしい』などと言われ、我慢している人が多かった。待っているだけではだめだと気づいた」と話します。
 山田町は津波で甚大な被害を受けました。組合員で障がい者施設の理事長を務める佐藤照彦さんは、自宅を流されました。施設は海から離れていたため無事でしたが、利用者や職員の家族には犠牲者もおり、施設を避難所として開放しました。
 しかし、指定された避難所ではないため、行政からの支援はありませんでした。「支援物資が届かず、特に食べ物がなかった」と佐藤さん。「知人から米を分けてもらうなど、周りの人たちに助けてもらった」と話します。決して多くはない食料を「支援物資が届くまではささえ合わないと」と、役場や小学校にも届けました。

■他団体とも協力して

 仮設住宅に移ると1人になり、寂しさから「私が死ねば良かった」という人も出てきました。佐藤さんはそうした人を対象に、11年7月22日に初の「お茶っこ会」を開催。また、健康維持のため岩手民医連と協力し、12年から公営住宅に移る18年まで「軽体操とお茶っこ会」を66回行いました。多い日は40人以上が参加しました。
 病院から仮設住宅までは2時間以上かかります。「がれきや津波で道が寸断され、ナビ通りにたどり着けなかった」と田中さん。「沿岸部に入ると、魚の腐ったようなにおいがして、風景が変わるのを今でも覚えている」と小松さん。参加した職員はのべ223人。のべ645人の被災者が参加しました。血圧や体脂肪などの健康チェックや体操を行い、おしゃべりをします。被災者から「久しぶりに笑った」「遠くからきてくれてありがとう」と言われ、職員が励まされることもありました。

* * *

 被災者が公営住宅に移ってから集まることが難しくなったため、19年は「ミニ健康まつり」を2回開催しました。しかし、昨年はコロナ禍の影響で開催できませんでした。岩手民医連事務局長の遠藤洋史さんは「状況が整えば再開したい」と言います。「長期的な心の支援が大切。他団体とも協力し、被災者に寄り添う支援を続けていきます」。

(民医連新聞 第1732号 2021年3月1日)