つなぐ 声に出せない声を伝え若い世代へ受け継ぐ 宮城民医連 東日本大震災福島第一原発事故から10年
東日本大震災、東京電力福島第一原発事故から10年がたとうとしています。被災地の宮城から、震災の様子、これまでの活動のふり返り、そしてこれから―。入職して10~13年の千葉茂樹さん(医師)、中川恵介さん(事務)、足利知弘さん(薬局事務)に宮城民医連副会長の矢崎とも子さん(医師)、医学部5年生の長谷川碧紀(たまき)さんも加わり、語り合いました。(代田夏未記者)
中川 2011年3月11日の震災当日はどう過ごしていましたか?
千葉 卒業旅行をしていて沖縄の石垣島にいました。お店で地震があったというニュースを見て「冗談か」と思いました。翌日、実家のある南三陸町に津波がきた映像を見て、実家はもうないかもと思いました。実家は津波で流されたので、仮住まいを準備しながら、2週間遅れで研修を始めました。
足利 坂総合病院の隣にあるつばさ薬局多賀城店で3年目職員として働いていました。午後2時過ぎに急に携帯が鳴るし、揺れるし…。家に帰れない職員は残って片付けをしました。家は1階が浸水し、配電盤が浸かったため、電気やガスは1カ月使えず、ほとんど薬局にいました。
矢崎 2歳と5歳の子どもを保育園に預けて、40km離れた古川民主病院へ支援に行っていました。地震で新幹線が止まり、午後5時過ぎに職員の車に乗せてもらって帰路につきましたが、橋を越える道は津波で寸断していて、50分くらいの道を何度も迂回して5時間以上かかりました。
中川 4月に入職すると全国から仲間が支援に来ていて「これが民医連なんだ」と思いました。
足利 人手が足りないからと病院でトリアージの手伝いをして、医療の最前線に立ち、その重要性を感じました。
矢崎 そうやっていろんな職種が「できることをやる!」と動けることがすごいと思います。医師が「感染症が流行っているから」とトイレ掃除をしたり、ある県連会長が物資を仕分けたり、肩書き関係なく目の前にあることをやれる仲間がいるのが民医連だなと。
■民医連を超えてつながる
中川 この10年間、どんな活動をしてきましたか?
千葉 3年目の時、わたり病院へ支援に行き福島の現状を見ることができました。帰宅困難区域は2年前から時が止まったままで、重大なことが起きたと感じました。08年から続いている「宮城ピーチャリ(反核平和自転車リレー)」に入職してから毎年参加しているのは、そこで見たことを伝えたいから。職員だけでなく、義肢装具の人や友人も参加しています。
中川 ピーチャリや震災に関する企画をいっしょにできる仲間がいろんな世代、職種にいることは、民医連やピーチャリだからできることですね。
矢崎 「ゆるくつながろう」と言うのがピーチャリの魅力なんだと思います。社会的な問題を話せる若者たちが集まっているのはすごく頼もしいし、期待しています。
中川 福島や他県の民医連職員と走ったり、福島と沖縄で「勝手にピーチャリ」もしました。昨年11月に南三陸町に行ったときは、津波を経験した4人のおばあちゃんに話を聞けたんだよね。
長谷川 話を聞いた中で、津波で大変な思いをした人が「いのちがあれば幸せだよ」と笑顔で話してくれたのが、心に響きました。私には想像し得ない経験をしたからこそ言えることだと思います。
千葉 生きる重みや、いのちの価値を教えてくれました。そういう経験を学生や職員にしてほしいです。
■発信する責任
足利 11年に宮城で全国JB(ジャンボリー)を開催する予定でしたが、震災で白紙になりかけました。でも、支援をもらった感謝とがんばってきたことを伝えたいと、企画を震災関連にシフトして、12年3月に開催できました。
中川 震災のことを話せない人の分も発信したいと思って、全国JBで被災地ガイドを引き受けました。宮城に住むからこそ発信する責任があると思っています。
矢崎 発信することや話せない人がいることに気づくことはとても大切だと思います。震災直後、外来に来る患者さんは「変わりありません」と言うけど、「津波は大丈夫だった?」と聞くと、「実は流されて、泥水の中でもがき苦しんでいるところを引き上げてもらい生き残れた」と。今は大丈夫だから、と言わないことも多いです。自分より大変な思いをした人がいっぱいいるから、生き残れた人が「苦しい」と言えないでいるのだと感じることが多くあります。
長谷川 民医連にかかわるようになったのは坂総合病院が震災の時どうしていたかを聞いて、もっと知りたいと思ったから。実習で患者さんと接する中で、震災の話が出ることもあります。同級生が返答に困る中、私は民医連で学んでいたので落ち着いて話すことができました。
矢崎 震災当時から避難所訪問を始めました。その後、孤立する人たちをなくそうと復興支援会議を立ち上げて、仮設住宅、復興公営住宅の調査は7年目になります。
中川 その調査をまとめて矢崎先生たちが記者会見で発表しています。僕らにはできないことで、それぞれの発信や行動の仕方があるんだと感じました。
矢崎 千葉先生の提案で、民医連の事業所がない南三陸町でも、ピーチャリといっしょに調査をしています。診療圏内の復興住宅に、日常的にかかわれるような地域づくりをしていかなければと思っています。
■民意を無視する再稼働
中川 県内の女川原発が再稼働の方向ですすんでいます。それに対して「NO」という運動をしています。過去には県民投票条例を制定しようと署名活動にとりくんだり、11月のピーチャリでは、事前に女川原発の避難計画に関する学習会をして、UPZ圏内(下地図)の南三陸町を走りました。
千葉 再稼働反対の住民が多いのは明らかですが、県議会で住民の思いに反して再稼働へのGOサインが議決されました。しかし、再稼働までに最低2年はかかるので、あきらめず再稼働させないとりくみをすすめます。住民の思いを反映できるようにしたいです。
■若い世代へ
千葉 地域づくりもしていきたいと思っているんですが、震災を知らない職員も増えてきて、どう続けていくか模索しています。
矢崎 「若者は大変よね」だけじゃいくら発信しても届かない。例えば、学費が払えないから学校をやめざるを得ないとか、奨学金をもらわないと学生にすらなれないなんて普通じゃない、と伝える。経済的理由で教育を受ける権利を奪われるのは人権侵害だと。社会の見方や考え方を知らせていくことが大切だと思います。うまくいかないのは個人の問題ではなく社会の仕組みなのかも、と視点を変えられたら、みんなで動いていけるのではないかな。自分の抱える困難を社会とつなげて考えられるような、伝え方や運動づくりができるといいと思っています。
中川 長谷川さんは入試差別の問題でがんばっていたよね。
長谷川 当事者として全国の学生といっしょに声を上げたことで国が動いた。私にとって強みになっています。
■これから
長谷川 同級生は変だと思うことがあっても言わないんです。自分たちが発言する権利を持っていて、行使することがいかに大事かわかっていないといけないと思いました。なので、後輩たちに地域や震災について知ることが、いかに重要か伝えていかないと、と思っています。
足利 オンラインで参加した日本平和大会では、若者が参加しやすい形態でも、年齢層が高い人の参加率が圧倒的に多い状況でした。今までの活動を続けながら、後輩や若手職員がかかわれるスタイルを模索したいです。
中川 震災がなければ社会保障や平和、原発、沖縄のことなどを身近なものに感じていなかったと思います。あの一日で考え方や生き方が変わりました。福島の隣県でありながら原発を再稼働させる判断をした宮城県知事、県議会が一番腹立たしい。そういう人を選んでしまった責任があるので、僕らを苦しめる政治を変えないといけないと思っています。どんな社会で生きたいか考えて、周りに広めていきたいです。
矢崎 10年たつので復興支援の公的なお金が減ると思う。「10年たつからいいじゃん」という意見もあるけど、10年たてばさらに追い込まれるんですよ。給料や年金が増えるわけでもなく、消費税は増えて…。だから地道に寄り添い続けて、20年、30年先を見越して学んでいかないといけない。民医連は退職してもつながりがあって、地域とも連携しているので、みんなで協力することが大切ですね。
千葉 民医連の考える地域包括ケアの姿や地域づくりをとりくんでいかないと、と思います。コロナ禍でオンラインなどの新しいつながり方ができたので、そういう方法も含めて、ピーチャリなどをほかの県とできればと思います。
(民医連新聞 第1728号 2021年1月4日)