ほかの医療機関も共感できる綱領を 綱領決定に至る経過と問題意識
第44回定期総会の記念講演は全日本民医連元会長の肥田泰さんが、「綱領改定に至る経過と問題意識」と題し行いました。肥田さんのルーツや綱領改定に至るまでの経過、会長の時に起きたさまざまな問題から得た教訓などを語りました。(代田夏未記者)
■父をみて医師を決意
私の父、肥田舜太郎(全日本民医連元副会長)は往診の帰り道に広島で被爆しました。救護活動を行いましたが、全身から出血し、高熱で死んでいく患者たちを見て、医師として何もできない事態にがくぜんとしたといいます。
戦後、国立病院に勤め、労働組合の執行委員に選出されます。しかし、朝鮮戦争でレッドパージにあい、国立病院から追い出された父は、同じように追い出された医師たちと民主診療所をつくりました。貧しい人、生活が苦しい人のいのちと健康を守るために、連絡があれば夜中でも自転車で往診に行く。そんな父を見て、私も医師になることを決意しました。
私は東京大学医学部に進学。その8カ月後に1年5カ月におよぶストライキに突入しました。これにより医学連が崩壊し、再建のために全国医学生自治会連絡会議を発足させ、初代議長になりました。自治会への参加をお願いするため、全国の医学部をまわり、出会ったのが民医連でした。
山梨の巨摩共立病院に入職。1976年に地元の埼玉に戻りました。78年に埼玉協同病院が開設し、外科の一員として参加。85年には所沢の埼玉西協同病院の院長になりました。そして82年に埼玉協同病院の院長になりました。
■病院の質向上をめざして
病院長として病院の質を獲得しようと考え、医師会の同意を得て開放病床5床を実現し、3~4カ月に1回の地域医療懇談会、カルテ開示や倫理委員会を設置し、MRI、CT、胃カメラ、大腸ファイバーなど病院の医療資源を開放しました。私たちがいいと思ったことは地域に知らせるべきととりくみました。
埼玉協同病院には4つの目標があります。1つ目は埼玉民医連の医療センター、2つ目は人材育成センター、3つ目は埼玉県の医療政策に影響を与える、4つ目は赤字を出さない、です。特に人材育成では、どうしたら臨床研修病院になれるのか、何度も厚生省(当時)を訪ね、研修病院の指定を獲得しました。
92年に全日本民医連の理事になりました。そのころ医療界の中で病院機能評価を始めようという動きがありました。中心となったのは日本病院会の河北博文医師、医師会、厚生省。記者が河北医師を取材すると、「機能評価に反対する医者はいますか」との問いに「埼玉協同病院の院長が反対しているらしい」と答えたため、私に取材に来ました。私は「機能評価はおおいにやるべきだ。反対の理由は厚生省が入っていること。厚生省が入ると、将来、国の医療政策に利用される恐れがある」と答えました。まさに現在、診療報酬の中に機能評価を受けていないと算定できない項目が増えてきています。しかし、機能評価自体はやるべきだと考えています。
■全国で「医療・福祉宣言」づくり
私が理事になったころから綱領を変えてはという議論がありました。しかし、前回の改定に要したエネルギーを考えると踏み出せませんでした。そこで、まず「医療・福祉宣言」を出そうと準備を始めました。藤末衛前会長らを中心に、全国の事業所にそれぞれの宣言をつくろうと呼びかけ、大運動になりました。忘れられないのは「50年も前の綱領でどうして医療ができるのか?」と言われたことです。戦争反対と人権を守ることを中心に、ほかの医療機関も同意できる綱領をつくろうと、数年かけた全国討議を呼びかけました。
綱領は私たちがやってきたこと、これからとりくむべきことをとり入れています。「貧困と格差の中で民医連としてできることはないのか」との思いから、無料低額診療事業が普及しました。生活保護の利用にためらいがあるという人でも抵抗なく利用できます。
課題もあります。辺野古支援連帯行動は日本の未来を守るたたかいです。沖縄や基地問題について考えられる職員を育て、参加した人を中心に社保活動をすすめてほしいと思います。
地域包括ケア時代のいま、国は医療・介護の問題を地域の問題だとしています。これでは問題解決にはなりません。財政や人的支援がないままで地域包括支援センターは疲へいしています。そこに手を差し伸べながら、解決に向けてすすめていきましょう。
(民医連新聞 第1713号 2020年4月6日)