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民医連新聞

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原爆の怖さを若い人に 戦争と核兵器をなくしたい 張本勲さん(野球解説者)の姉 小林愛子さんに青年職員が聞く

 広島の被爆者・小林愛子さん(81歳)は、この1年余りでヒバクシャ国際署名を約2300筆集めました。小中学生などに向け、語り部活動もしています。2歳下の弟で、いっしょに被爆した張本勲(いさお)さん(国内最多安打記録をもつ元プロ野球選手で野球解説者、球界の「ご意見番」)は、「あっぱれ!!」をくれました。一方で、家族の間では、あの8月6日とその後のつらい話をできずにいます。被爆から74年、兵庫・神戸医療生協の岡本啓克さん、松本昌之さんが聞きました。

(文・丸山いぶき)

 1945年8月6日、午前8時15分、7歳(小学1年)だった小林愛子さんは、爆心地から南東に約1・5km、比治山の近くにあった自宅で被爆しました。いっしょにいた弟の張本勲さんは、当時5歳になったばかりでした。

ピカッ! ドォーン!! ガシャガシャガシャガシャー!!

 瞬間、2人に覆いかぶさり守った母に、「はよ! 勲を連れて逃げんさい!! みんなが逃げる方へ!」と言われ、ペシャンコの家から這(は)い出し、地獄と化した街を、勲さんと2人で逃げました。母の背中と足にはガラス片が突き刺さっていました。

* * *

 小林さんの話に聞き入るのは、神戸医療生協健康まちづくり部の岡本啓克さん(3年目、保健師)と松本昌之さん(1年目、事務)。岡本さんは2年前に長崎で開かれた原水爆禁止世界大会に参加。松本さんは今年初参加します。
 「ヒバクシャ国際署名はいつでも持ち歩く」と小林さん。市役所や郵便局、銀行、知らない会社でも訪ねていき、署名をお願いします。「断られて悔しい思いをしても続ける」という行動力に、2人は感嘆の声をあげます。
 兵庫県加古川市在住の小林さんは、県内を中心に小中学校や高齢者大学、医療機関、地域などさまざまなところで、語り部活動をしています。以前は、「あんなつらい話は、子どもにも大人にも聞かせたくない」と断っていました。しかし、20年ほど前、ある小学校での講演をきっかけに、その気持ちが変化しました。
 「子どもたちが、目をキラキラ輝かせて真剣に聞いてくれて、私が言ったこと全部、本当に全部、感想文に書いてくれたの。読みながら涙が止まらなくて」と小林さん。男児、女児用にそれぞれ便せんを買い、全員に返事を書きました。「子どもたちは、ちゃんと聞いてくれる。みんなに伝えて、核兵器廃絶を訴えたい。原爆の怖さを若い人に知ってほしい」と、以後、県内多くの小中学校で、語り部活動を続けています。時には人生の話もします。「努力すれば何でもできる」「お金で買えない、何より大事なものは、いのち! 絶対に大切にして」と。

1秒でも早く 核兵器廃絶を あんな恐ろしいこと 二度とあってはダメ 小林愛子さんの被爆証言

 我が家は父が早くに亡くなり、1945年8月当時、母と兄(中学2年)、姉(小学5年)、私(7歳、小学1年)、弟の勲(5歳)の5人家族でした。
 8月6日の朝は、兄と姉が勤労奉仕で早くから出かけ、家には母と私と弟の3人だけでした。いい天気なのに、なぜか窓や扉が閉まっていたのを覚えています。子どもながらに、戦争をしていることは知っていました。毎日、空襲警報が鳴るなどしていましたから。

■はよ逃げんさい!

 8時15分、窓の外が一瞬、真っ赤に見えた後、母が覆いかぶさってきました。ものすごい音と衝撃で、何が起きたかわかりませんでした。しばらくして、「勲を連れてはよ逃げんさい!」と叫ぶ母の声が。「どこに?! お母ちゃんもいっしょに行こう」と言うと、母は「いいから逃げんさい! みんなが行く方に! お母ちゃんはお兄ちゃんとお姉ちゃんを待たんといけんのじゃけ。絶対あんたらも探しに行くから」と言いました。
 家はペシャンコ。弟と必死で這い出ました。周りの家もつぶれて燃えていました。気づくと私と弟の服は真っ赤。覆いかぶさってくれた母は、背中と足にガラス片が突き刺さり、その血が私たちにベットリついていたのです。
 弟を連れて、おそらく原爆ドームと反対方向へ逃げたと思います。うめく人の声、ドロドロに火傷を負った人たち…。普段は水がきれいに澄み、潮が引く時間には貝や沢ガニを捕って食べていた川に、火傷を負った人が水を求めて入りどんどん死んでいきました。
 母の血で染まった服からは、何とも言えない臭いがして、臭いを消そうと川へ向かいました。弟のシャツを洗い流そうとすくった川の水は赤茶色でドロドロ。洗うと、服はますます赤茶色に染まりました。私は、弟と川に入ったり、水を飲んだりはしませんでした。「逃げんさい!」という母の声を思い出したからです。

■おじちゃんのおにぎり

 どこへ向かったかはわかりません。薄暗くなった頃、橋のたもとの土手に2人で座り込みました。広島方向は何にもなくなって、赤く燃えていました。遠くでは「イタイ」「アツイ」と声が。
 見知らぬおじちゃんが白い箱を積んだ自転車を引いてやってきて、「食べんさい」と白い米のおにぎりを1つずつくれました。人間は本当に恐ろしい時は声も出ません。弟は母を求めて泣くことも、声を発することもなく、その時はじめて「おじちゃん、ありがとう」と言いました。配給だよりで食糧もないのに、なぜおにぎりを配ってくれていたのか、おじちゃんの優しさを思い出すと、今も涙が出ます。
 その後は記憶がなく、二晩くらいそこにいたように思います。気づくと、弟と2人で、当時広島に多かったブドウ畑の前にいました。「お兄ちゃん! お母ちゃん!」。そこにいた2人に駆け寄り、抱き合ってわんわん泣きました。ブドウ畑にはたくさんの人が避難していました。誰かに連れられてきたのか、自力で行ったのか、74年経つ今もわかりません。

■大好きなお姉ちゃんが

 兄は腕にケガを負い、自分のシャツをちぎり巻きつけていました。母は背中と足にガラスが刺さったまま。「お姉ちゃんは?!」と聞くと、母が「お姉ちゃんは帰って来んのよ…」と消え入りそうな声で言いました。私と弟は母に助けられケガもなかったので、「勲、お姉ちゃん探しに行こう?」と聞くと「うん。行くぅ」と応じました。色が白く優しいお姉ちゃん。弟は大好きでした。
 小学校など屋根が残った建物では、兵隊さんがケガ人や死んだ人を担架で運んでいました。臭いがこもり、皮膚がドロドロになって「イタイ」「アツイ」とうめく人の声。「テンコ姉ちゃーん!」と探し回るも見つからず、翌日も2人で朝から広島中を探しました。
 ここが最後かもしれないと思った頃、呼びかけに「あぁ…」という声。「テンコ姉ちゃんや」と駆け寄った建物の一番奥には、目も口も開かず全身火傷を負った、「本当にあのお姉ちゃんか」という姿が。近寄って見ると、本当にお姉ちゃんやったんです…。家族に会うまでは絶対に死ねない、とがんばってくれていたんだと思います。兵隊さんに頼み母と兄も会うことができました。
 姉は「アツイ、アツイ…」と言うばかり。うちわであおいであげたことを覚えています。弟は以前テレビで「ブドウを1つ、口に含んであげた」と話しました。テレビで聞いて初めて知りました。
 姉は、家族と再会して2日後くらいに亡くなったと思います。「死」というものもよくわからないほど幼かった私も、母がものすごく泣く姿を見て、姉は亡くなったんや、と思いました。

* * *

 あの優しい姉は、なぜ死ななければならなかったのでしょう。広島では14万人があの一瞬で亡くなり、11月までに30万人が亡くなったと言われています。子どもたちには、「今、この瞬間から、戦争と核兵器に反対して! あんな恐ろしいことは二度とあってはダメ!」と訴えています。

聞かせてください

小林愛子さん × 神戸医療生協の青年職員

 兵庫・神戸医療生協の岡本啓克さんと松本昌之さんは、ともに兵庫県出身の24歳。修学旅行で広島の平和記念資料館に行きました。「でも最近、資料館も原爆ドームもキレイになってしまった」と小林さん。子どもたちには、「原爆ってこんなもんか、と思わないで。100倍も、1000倍も恐ろしかった」と伝えています。
 幸い小林さんは、被爆後に大病を患うことも、差別されることもなく4人の子宝に恵まれました。しかし、「家族で原爆の話をすることは一切ない。大好きなお姉ちゃんを亡くしたことを思い出し、泣いてしまうことしか想像できないから」と言います。当時7歳でわからないことも多く、図書館で原爆のことを調べ伝えています。

■恨みより、核兵器反対!

 「毎年8月6日はどんな気持ちで迎えるんですか?」という岡本さんの問いに、「8月6日と9日という日がなかったら良かったのに、と思う」と小林さん。戦後、貧しい母子家庭で生きるのに必死でした。「強い人だった」という母は84歳で亡くなりました。思い出すのがつらく、姉の写真は全て燃やしてしまった一方、米兵が配るチョコレートやガムは「絶対もらうな」と言っていました。
 松本さんが「アメリカを恨んでいますか?」とたずねると、「子どもの頃は、お姉ちゃんを殺した! と恨んでいた」と小林さん。母同様、街を歩き回る米兵が大嫌いでした。しかし大人になるにつれ気持ちも薄れました。「恨んでもしょうがない。それより戦争反対、核兵器反対!」と。

■長崎で会いましょう

 岡本さんと松本さんも、ヒバクシャ国際署名を集めていると知ると、「うれしい。がんばろね」と小林さん。岡本さんが「自分たちの世代ががんばらないと。小林さんの勇気と行動力がすごい」と言うと、「動かんかったら、署名もらえないからね」と微笑みます。
 子どもたちの未来のためにお願いしても、「個人情報だから」と断られることも。「個人情報なんて金を積まれてもいらん、ただ署名がほしいだけ! 安倍首相やトランプ大統領みたいな変な人もおる」と、それでも小林さんは前向きです。かたくなだった加古川市長にも署名してもらいました。
 小林さんは今年初めて、原水爆禁止世界大会に参加します。長崎に行くのも初めて。平和行進でもいっしょだった松本さんと、「また会おうね」と約束して、岡本さんには「これからもよろしくね」と、声をかけました。

インタビューを終えて

■当時7歳の小林さんが74年経っても鮮明に覚えている、人生に消せない傷跡を残した原爆。唯一の戦争被爆国の日本は、世界の先頭に立ち声を上げていくべきです。私は、核兵器が世界からなくなる日を、1秒でも早く実現できるよう、地域の人といっしょにとりくんでいきます。

(岡本啓克)

■小林さんの年齢を感じさせない元気な表情の背景には、家族から引き継がれたたくましい愛があるのでは、と思いました。子どもたちの純粋さこそが平和への道筋、憎き戦争を再び起こさせない第一歩と講演活動を続け、1人で2300筆もの署名を集める姿は、ただただすごい。

(松本昌之)

(民医連新聞 第1697号 2019年8月5日)