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民医連新聞

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診察室から パジャールスタ!

 毎年8月が近づくと、戦争体験者の話を聞く機会が増えます。私の勤務するクリニックに時々受診する80代後半の女性(Aさん)は、診察が終わると「スパシーバ」(ロシア語でありがとう)と笑顔であいさつをしてくれます。発音が自然で本場っぽいのが印象的です。それもそのはず、終戦時には樺太(からふと)の豊原(現在のサハリン州ユジノサハリンスク)の高等女学校1年生で、終戦から帰国までの1年の間、ロシア人と生活した経験があるからです。
 岩手は戦後、樺太からの引き揚げ者を北海道に次いで多く受け入れました。縁故のない人も多く、原野の開拓地に多数入植。そうした開拓地が数多く、岩手町豊岡という地域も開拓地の一つです。当初の入植者数は45戸。Aさんも豊岡地区に入植したひとりです。
 Aさん一家は広島から樺太に移住し、工場を経営し豊かな生活を送っていました。Aさんも教師になる夢を持ち、師範学校への進学も決まっていたといいます。その後、突然のソ連軍の侵攻と終戦の中で、民間人だけでも数千人の死者を出す悲劇がありました。
 財産と故郷と、夢を全て奪われ、未知の原野の開拓に立ち向かうことになった少女は、どうやってその逆境を乗り越えていったのだろう。想像しながら昔話を聞いてみると、意外にもAさんはにこにこ笑いながら「近くに住んでいたソ連の人たちは悪い人たちではなかった。よく交流していたよ」「軍の将校の家族から、ベビーシッターを頼まれることもあった」と楽しい話を聞かせてくれます。
 岩手での開拓生活も「小学校での合同結婚式では、衣装は借り物、靴はゴム長靴、手袋は軍手。集落中の人に祝ってもらい、幸せでしたよ」と、苦労話はあまり出てきません。私たちが想像もできないような苦労というのは、言葉では表現できないのかもしれないな、と思いながら、次に会う時には帰り際に「パジャールスタ」(どういたしまして)とか言って話を促してみようか、などと考えたりします。

(浮田昭彦、岩手・さわやかクリニック)

(民医連新聞 第1697号 2019年8月5日)