フォーカス 私たちの実践 東日本大震災の経験 宮城・高齢者福祉施設 「宮城野の里」 福祉避難所の開設から今後の課題を探って
東日本大震災で職員も被災する中、宮城・高齢者福祉施設「宮城野の里」では、福祉避難所を開設し、地域の避難所で生活が困難な被災者を受け入れました。第14回看護介護活動研究交流集会での施設長・大内誠さんの報告です。
2011年3月11日に起きた東日本大震災で、宮城県では約9500人が死亡、うち55%は高齢者でした。県内の高齢者施設は38施設(8%)が被害を受け、入居者312人、職員87人、計399人が亡くなりました。
当施設は、デイサービス、ショートステイ、ケアハウス、地域包括支援センター、居宅介護支援事業所、ヘルパーステーションを併設する入所者50人/日、職員60人の高齢者福祉施設です。
沿岸から5・6キロメートルの位置にあり、東日本大震災の津波被害は免れました。しかし、いつ津波が来るかわからず、利用者全員が2階に避難。利用者・家族は自宅に帰れない人も多く、11日の夜は、利用者や近隣住民、職員を含め128人が当施設で過ごしました。
その後、デイサービスの泊まりや臨時の受け入れ、部分的な営業の再開、福祉避難所の開設などを行いました(図)。
■80日間の福祉避難者支援
福祉避難所とは、介護が必要な高齢者、障害者も避難できるよう、体制を整えた避難所のこと。1995年の阪神・淡路大震災を教訓に設置され、仙台市では全特養52カ所を福祉避難所として指定。どの施設も職員が被災し、機能させるには困難がありました。
地域の避難所は症状の重い人や認知症高齢者の対応ができず、居場所が大至急必要で、沿岸部の町内会長から、地域包括支援センターを通じて「避難所で生活が困難な人の受け入れ」の要望がありました。そこで、坂総合病院を拠点とした民医連の全国支援のもと、3月18日から80日間、ケアハウスの食堂で福祉避難所を開設し、避難者30人を受け入れました。
当施設の職員も被災している困難な状況でしたが、15日に最初に駆け付けてくれた北海道民医連の支援者3人の後押しが大きな力になりました。この間、全国からの支援者は187人。4月1日には、沖縄から長期支援者も来てくれました。被災し生活の場を失った要介護、要支援者と家族の生活をささえ、身体的介護や心のケアを行うことと、元の生活に戻るまでの支援に奮闘しました。
ケアハウスの利用者への制約を解消する必要から、4月末、福祉避難所の閉所へ向けた方針を決定。避難者を思うと心苦しい決断で、職員や支援者から戸惑いの声もありましたが、次の住まいや受け入れ先の決定の支援にあたり、5月31日、閉所しました。
■今後は経験の共有も課題
福祉避難所のとりくみは、民医連という全国組織があったからこそできた活動でした。全国からの支援物資は、地域や元職員、他施設にも届け、喜ばれました。普段から困難な人に寄り添う民医連の実践があったから、顔も知らない仲間を信じ、踏ん張れたのだと思います。あらためて、この組織で働けていることのすばらしさを実感した期間でした。
一方、東日本大震災では、利用者を見捨てられず津波で流された県の施設職員もいました。これは決して美談ではありません。災害時、まず守るべきは自分の身の安全ですが、個々の判断では迷いも生じます。法人、事業所が職員を守らなければなりません。被災者でもある職員が、全力を尽くさなければならない期間は、どうしてもあります。しかし、緊張状態での勤務は長くは続きません。職員の健康への配慮も欠かせません。
一昨年、宮城県は女川原発事故の際に原発周辺施設の入所者を何人受け入れ可能か、問い合わせてきました。施設のスペースは限られますし、地域の人を受け入れることも必要です。どう考えても原発をなくす方が現実的です。
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福祉避難所の運営責任者だったケアマネジャーは今春、定年退職します。職員も入れ替わる中、震災の教訓や、福祉避難所のとりくみを通じて得た、民医連への確信の共有も課題だと感じます。
(民医連新聞 第1687号 2019年3月4日)