診察室から 将棋で「ミンイレン」背負い
実家は漁村で小さな旅館をしていた。お客さん用に将棋や囲碁があり、将棋はルールが簡単なので小学生の時から父や友達と時々指していた。中学生になると詰将棋をしたり、定跡本を読むようになった。大学にすすむと将棋部に入り本格的に指すようになった。
卒業後、故郷の徳島に戻り、健生病院に入職して1年目に民医連の将棋大会に参加。運よく優勝してしまった。共済会が裕福な時代に何度か出場し、徳島県民医連チームとして団体戦で優勝した年もあった。全国の仲間と知り合い、2年に1回仕事を忘れて各地で会うのが楽しみだった。その後、残念ながら全国大会はなくなり、寂しい時代が続いた。
そんな折、当時大阪民医連のK先生から「民医連職員でチームを作って西日本職域団体戦に出てみないか」と誘われた。徳島県民医連と大阪民医連で合同チームを結成し、「西日本民医連」という大胆なチーム名で出場。県代表クラスの先生たちとともにB級で優勝できた。
その後仕事が忙しくなり、将棋を指すのはこの大会だけになった。しかし、忙しい民医連の先生に年に一度会い、仲間として将棋を指すのが楽しかった。大病を患い大会に参加できない時期もあったが、約2年間の闘病生活を経て少しずつ仕事に復帰し、また西日本民医連チームに参加した。3年ぶりの大会は、中小企業のチームが激減し、大企業や公務員のチームばかりに。こんなところにもアベノミクスの影響が出ているようで、安倍政権には早く退陣してもらわないといけない、という思いを強くした。
久しぶりの将棋は一手詰を逃すなど散々な結果に。チームも予選敗退。ただ、そのおかげでプロ棋士の指導対局を受けることができた。絶対に勝ちたいと二枚落ちで挑戦し、何とか勝利。予選落ちの鬱憤(うっぷん)を晴らした。
今後も年に一度、「ミンイレン」の名を背負って将棋盤に向うことが私の大きな楽しみになることだろう。
(門田耕作、徳島健生病院・県民医連会長)
(民医連新聞 第1683号 2019年1月7日)
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