結成65年 民医連のDNA 広島・福島生協病院 地域の医療をささえ 困難をともに生きる
一九五五年、差別と貧困と被爆の苦しみの中にあった無医地域、広島市福島町に診療所が誕生しました。六三年たった今も、地域の人たちにささえられ、地域の人たちのよりどころになっている福島生協病院を訪ねました。
(代田夏未記者)
広島県内で最初の民主診療所が誕生したのは、医療からもっとも遠くに置かれていた人たちが暮らす被差別部落でした。
江戸時代、「人間外の人間」の身分がつくられ、その人たちが暮らす地域は「部落」と呼ばれました。福島町もそのひとつで、明治以降も差別は根強く続きました。太平洋戦争が始まると、医師は戦争に駆り出され、日本中で無医地域が増加。福島町も一九三二年から一三年間無医地域でした。
四五年八月六日、アメリカが投下した原爆は、爆心地から一・五~二・七キロメートル離れた福島町にも被害をもたらし、ほとんどの家屋が全壊、死者や負傷者であふれました。敗戦後も原爆症や貧しさゆえの不衛生で感染症に苦しみ、「福島町に診療所をつくろう」という町民の動きが高まりました。五五年八月一六日、福島診療所が設立され、二年後の五七年九月には民医連の綱領に賛同し、民医連に加盟しました。
■地域に助けられて
福島診療所の初代所長の中本康雄医師は、海軍軍医だった父の背中を追い、海軍兵学校へ進学。「お国のために」と軍国少年でした。
八月六日は伝染病になったため、隔離病棟にいた中本さん。ピカッと光り、キノコ雲が見え、途方もないことが起きたと感じました。
八月一五日に敗戦を聞いたショック状態の中、やがて、「逃げちゃいけんのう」と思うに至りました。
脳裏に浮かんだのは「最後は無医地域で働かないかん」という父の言葉。父や兄のように、医師になろうと決意しました。一年間のインターン生活を終え、呉の病院に新人研修医として就職した一カ月後、「福島に診療所をつくってくれんか」と住民から依頼を受け、「所長は君しかおらん」と言われて決心しました。
初日の患者はわずか一二人。しかし、一カ月後には六〇人に増え、午前中は外来患者、午後は往診、夕方は日雇い保険の患者でいっぱいに。一日六〇人の往診にまわったこともありました。「往診した翌日も様子を見に行っていた」。忙しい中でも患者に寄り添う医療を貫きました。
「若かった自分を職員や地域の人が育ててくれた。みんなの意見を聞いてきたから続けることができた」と中本さんは振り返ります。
■悲惨な被爆体験
福島生協病院の歴史を振り返る時、忘れてはならないのが、被爆者と向き合い、ともに歩んできた道のり。「四〇年ほど前、被爆者検診を受けたことが病院との出会いでした」と被爆患者の小方澄子さんは話します。五七年間、その体験は話すことができませんでした。語り部が亡くなっていく中、被爆体験を語ることが生き残った者の使命だと考えるようになりました。
小方さんは一三歳の時に被爆。当時、建物疎開(空襲による火災の延焼を防ぐため建物を取り壊して空間をつくる作業)に従事していましたが、六日は体調が悪く原爆ドームから七〇〇メートルの自宅で休んでいました。突然、轟音がし、家が崩れました。叔母に助けられ、二人の弟もいっしょに西へと逃げました。あたりは火の海。山手川に着いてまもなく、嘔吐や下痢がはじまり、川から離れられなくなりました。そこから一週間、野宿を余儀なくされました。
二週間たつと髪が抜け、体には紫色の斑点、歯茎からの出血、高熱が続きました。意識を失い、体の痛みで目が覚めた一カ月後には、いっしょに逃げた叔母は亡くなっていました。その後も大量の膿(うみ)が出て、皮膚がはがれるなど、原爆の傷痕が深く残りました。
小方さんは、若い頃は貧血で入退院を繰り返していました。「甲状腺がんや副鼻腔の腫瘍、二回の胃がんを発症しましたが、福島生協病院のおかげで今は元気に暮らしています」と語ります。
■苦しみの背景は何か
診療所設立後、大きな困難として立ちはだかったのが、アルコール依存症患者が多いことでした。
貧困や差別で、人も自分も信じられず、酒に頼るしかなく暴力を振るう人も少なくありませんでした。
「道ばたで倒れている人がよく運び込まれました。そういう人はまずお風呂に入れました」。総看護師長の谷宏美さんは振り返ります。「物を投げたり、怒鳴ったりする患者もいましたが、この地域の苦難を考えると、ここが命綱にならなければと思いました」。
医療相談室の岡野恵美さんは、県外の大学に進学し、「被爆者支援とは」と題した論文を書きました。被爆者と向き合う中で、広島に戻って被爆者に関わるSWになりたいと思うようになりました。
入職すると被爆に関わる相談か、生活保護に関する相談がほとんど。「歴史がある病院だから地域の人のよりどころになっている。地域の人たちが今よりよい生活が送れるよう、社会の権利を求めて活動したい」と岡野さんは話します。
■医療難民を減らすため
設立から六三年。変わらず心がけているのはー。「『面倒見のよい病院』であることです」と北口浩院長は話します。それをささえているのは、開業後まもなくから設置している「被爆者相談室(のちの医療相談室)」。被爆問題に対し、行政や地域と協力して患者をささえてきました。
「これからはアウトリーチにも積極的にとりくんでいきたい」と北口院長。病院周辺の地域の高齢化に伴い、ひとり暮らしも多く、認知症が進行した状態で来院するケースや、亡くなって発見されることもあります。
そのような状況を改善するため、広島市の委託を受けた広島市西区医師会が「認知症初期集中支援チーム」を発足。同院の職員も参加しています。認知症の患者やその疑いのある家族を訪問し、適切な医療や介護につなげる初期支援を行っています。
北口院長は「少しでも異変や病気の兆候があれば、自宅を訪問するような体制をつくりたい。『駆け込み寺となる病院』から『出向いていく病院』へ。地域全体に広げていけたら」と構想しています。
(民医連新聞 第1673号 2018年8月6日)