Borders 時々透明 多民族国家で生まれて (15)異文化へ
三重の仕事が終わり、アメリカへ戻った。たどり着いたのは親戚の住むロサンゼルスだった。最初のころは三重との違いが鮮やかに僕を襲った。電車が車へ。日本語が英語とスペイン語へ。目立っていた僕の体は透明になった。目立たないのは嬉しいが、他のことでイライラして、逆カルチャーショックに陥った。三重で面倒くさいことは異文化を学ぶ機会であり興味深かかったが、ロスでは面倒くさいことはただただ面倒くさい。
ある夕方、僕は従姉妹のテリーの家へ行った。その日は断食して1年を顧みる「ヨム・キプル」というユダヤ教の贖罪の日で、僕は生まれて初めてヨム・キプルに参加した。
テリー一家とシナゴーグへ向かう車の中では子どもたちが雀のようにさえずるかたわら、大人たちの会話も弾んだ。両方の会話を聞きながら、また外国にいるような気がしてきた。シナゴーグで儀式を行うラビ(ユダヤ教の指導者)は、「お腹が空いているだろう」と何回も笑顔で皆に語りかけ、冗談をよく言った。外国にいる気持ちは更に強くなった。
帰宅後、断食しなくても良かった子どもたちは遊び始めた。大人は食卓に着き、まるで重い荷物を降ろしたような表情でゆっくりと食べ始める。テリーの義姉エイミーが僕に声をかけた。「日本はどうだった?」
「楽しかった」三重の経験を簡単にまとめるのはまず無理だと思いながら僕は言った。
「反ユダヤ主義って日本にもあるの?」とエイミーが聞くと、他の親戚は黙って僕の言葉に耳をそばだてた。
「あるよ、もちろん」
「例えば?」
「ユダヤ人は金融関係を裏で操っているとか」
「角は?」とエイミーは聞いた。
「角?」
「角だよ。ユダヤ人は悪魔のように角があるって言われたことないの?」とエイミーは言った。
「初耳」と僕は純粋に驚いた。
「高校時代、白人の子に角はあるか聞かれた。無いって言ったら傷跡を見せてみろってさ」
皆は笑ったり頷いたりして、反ユダヤ主義に遭った経験を語り始めた。
帰りの高速道路は渋滞だった。暗い中、ゆっくりとすすむ大量の赤い玉の緒のような尾灯を見ながら、僕は夜の出来事を顧みた。初めて大人として親戚と関わった。これからも親戚と付き合っていくだろうし、宗教を拒否しても祭りには参加するだろう。親戚と過ごすのは楽しいが、僕はユダヤのコミュニティーに本当に入りたいだろうか? と自問自答した。そして、僕の頭の中に「とりあえず」という日本語が泡のように浮かんだ。
文 ヘイムス・アーロン 東京在住のユダヤ系アメリカ人。セントルイス・ワシントン大学院生、専門は人類学。1977年生まれ、ネブラスカ州育ち
(民医連新聞 第1655号 2017年11月6日)
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