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民医連新聞

民医連新聞

おつかれさま!西山進さん 本紙1コマ漫画 待合室 連載28年

 柔らかい線に込めた鋭い風刺―。本紙で二八年間続いた一コマ漫画「待合室」が終了しました。終了にあたって、作者の西山進さんの横顔を知って下さい。

 「入院しちゃって描けないので、今回は漫画をお休みします」。八月初旬、編集部にこんな連絡が入りました。二八年の連載中、椎間板ヘルニアの手術などで入院することになっても、一度も休載しなかった西山さんでしたが、今回の入院を機に、ペンを置くと決めました。
 「待合室」が本紙に登場したのは一九八九年一一月二一日号。医師と被爆者が被爆者援護法を求める署名と国民医療を守る署名を互いに出し合う場面でした(左)。
 当時の編集部の議論は記録されていませんが、西山さんは民医連の被爆医師・肥田舜太郎さん(故人)と親交が深いなど、本紙に連載するに至る縁は大いにありました。日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の機関紙では「おり鶴さん」も連載していました。

■長崎で被爆

 一七歳の時に働いていた工場(三菱長崎造船所)で被爆しました。翌一〇日に爆心地周辺での救助活動にも参加。その後、強い倦怠感に襲われる原爆症にもなりました。戦後直後は被爆による健康障害の実態がまだ国民に知らされていなかった頃です。家族にも理解されず、故郷の大分県を出奔。夢だった漫画家デビューは、四七歳になってからでした。

■たたかう姿勢が作品に

 被爆者運動にも積極的に関わってきました。地域で被爆者の会を作ったり、国連軍縮総会で被爆体験を語ったり、被爆者救済と核兵器廃絶に奔走。福岡市在住ですが、自作の紙芝居を手に市内の小学校を回り、語り部として児童たちに被爆体験を伝えています。
 二〇一一年三月の東京電力福島第一原発の事故後は、九州電力本社前にテントを建てて座り込み、玄海原発と川内原発の廃炉を訴え。西山さんの漫画は、運動のさまざまな場面に添えられました。
 最近では、共謀罪の危険性を、治安維持法の体験者として本紙で語ってもくれました。たたかうことを忘れない西山さんだからこそ、優しくて強い漫画を描き続けることができたのです。(木下直子記者)


西山さんからの手紙

 7月27日、救急車で入院、2週間入院して退院しました。現在、酸素をつけて生活しています。
 田村久子さんのあと、拙い漫画を長い間、掲載させていただき感謝申し上げます。いっしょけんめいがんばったのですが、年々線が弱くなり、若さのなくなっていく漫画に歯をくいしばっていどみましたが、本当に残念ですが、打ち止めにしました。
 民医連の皆さんに期待されて描き続けられたことは 漫画家みょうりにつきます。私たちがねがっていた核兵器禁止条約も、国連で採択され第一歩をふみ出しました。こんな嬉しいことはありません。
 私もとうとう原爆症認定患者になりました。しかし、「ガンなんかに負けるもんか」と、自分のできることをやります。
 民主的な医療のためにたたかう
 みなさんのご発展を心から祈ります。2017年8月22日


72年目の夏
 ドキュメンタリー映像作家の谷本美毅さんが「西山進71年目の夏」(国際平和映画祭地球憲章賞受賞)の続編を取りたいというので、昨年夏約束した。ところが、呼吸不全でバタンキュー。緊急入院で長崎行きを危ぶまれたが、幸い8月7日退院。
 8月9日9時、長崎市に。平和式典まで時間があるので、72年前の8月10日の私の足跡をたどることにした。
 まず爆心地から500メートルの城山小学校。そこでは職員、児童1400人が殺された。むごいことだ。8月12日、先輩のお母さんを発見して、道路でお母さんの遺骸をだびに付したとき、振り返ると城山小学校の講堂のあの丸い窓が骸骨の目のように見えたっけ。

〈平和式典〉
 核兵器禁止条約が国連で採択されて、みんなが喜んでいるようだ。首相がどんな顔で出てくるのか。
 11時2分黙とう。静寂の中の蝉しぐれ。教会がうち鳴らす鐘の音。あの日と同じだ。
 子ども代表の言葉、深掘被爆者代表の言葉、田上市長の平和宣言、みんな心に落ちる言葉だった。安倍首相のスピーチ。「なんじゃ、お前、どこの国の首相か」
 30年間続けた連載も店じまい。これから静かに私の漫画を描きながら平和をたたかおう。ではまた。(「西山進の漫画しんぶん」 No.100より抜粋)

(民医連新聞 第1653号 2017年10月2日)