Borders 時々透明 多民族国家で生まれて (13)隣の空席
12月のはじめ、京都へ小さな旅にでかけた。京都に住んでいる友達が、季節ごとに古都を一緒に見物しようと誘ってくれた。秋は哲学の道で紅葉を見る予定だった。桑名から名古屋へ出て新幹線を勧められた。僕には大学の借金がたっぷり残っていたわけで、お金より時間に余裕があった。お手ごろの近鉄線で行くことにした。
まず伊勢行きの急行に乗った。中川駅で乗り換えると、空いている席は少なかった。お婆ちゃんと中学生の間に僕は座った。布の帽子を被ったお婆ちゃんは、眼鏡ごしに僕をちらっと見て立ち上がり、通路の向こう側の2人のサラリーマンの間の狭い隙間に無理やり座った。一瞬彼女が睨んだ気がしたが、すぐ目を伏せた。次の駅で婆ちゃんは降り、ホームで白い息を吐きだした。電車の中の僕はため息をついた。
僕をひと目見た途端、彼女が席を替えた理由はいろいろ想像できた。全てを「外国人だから」で片付けたくない僕。実はこんな経験はその時が初めてじゃなかったし、今でも遭遇する。空席が僕の隣しかない状況でも、誰も座らないことも時々ある。僕の隣に座りたくないんだ。
友達と南禅寺の近くで合流した。灰色の空の下で淡雪が舞い上がったり降りたりしていた。寺には観光者はほぼおらず、どこからともなく坊さんがお経を唱える声が響いた。風で枯葉が擦れ合い、インドから伝わったお経と混じって寺がいっそう古く感じた。友達と電車のお婆ちゃんの話をした。「まあ、外国人は苦手という人もいるね。英語で話しかけられるのを恐れてるのかも」と言われた。「へ?そこで逃げるの?」と僕。友達はため息をついた。「日本人じゃないと分かりにくいかな」そこで会話は終わり、山門へゆっくり歩きはじめた。寺を出て、静かに流れる小川に沿って、無言のまま紅葉を見た。
日本で人が僕の隣に座りたがらないことには慣れていた。しかし「日本人じゃないから分からない」で説明されると、壁ができてしまう。人が理解し合えるかどうかは会話で試すものだ。同じ経験をしていなくても理解することは可能だ。
哲学の道で、友達に「理解したいから説明して」とお願いした。すると友達は丁寧に話してくれた。しかし、同じようにお願いしても、皆が話してくれると限らない。
文 ヘイムス・アーロン 東京在住のユダヤ系アメリカ人。セントルイス・ワシントン大学院生、専門は人類学。1977年生まれ、ネブラスカ州育ち
(民医連新聞 第1653号 2017年10月2日)
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