民医連奨学生に聞く! 民医連の医療を待つ人たちがいるから 宮崎民医連 山下さくらさん(4年生)
なぜ民医連の奨学生になったのか―。各地の医学部奨学生に聞くシリーズ四回目は、宮崎民医連の奨学生、山下さくらさん。「必要とされる医師になりたい」と模索中です。(丸山聡子記者)
「私の頭の中、いま“平和脳”なんですよ~」。五月に反核医師の会学生部会で長崎に、六月には民医連の医療と研修を考える医学生のつどいで広島を訪れました。今は沖縄の基地被害について学んでいます。
被爆者の話聞き
長崎と広島で聞いた被爆者の話は、悔しくて悲しくて涙が止まりませんでした。幼少期の体験を七〇年以上経っても鮮明に覚えていて、その記憶が今も「生き残った責任」として重くのしかかっている…。核兵器の非人間性を目の当たりにした思いでした。
「戦争や原爆は、何万という命を不当に奪い、生き残った人から『人間らしく生きたい』という願いさえ奪う。すさまじい暴力」。
以前は、平和について語ることに勇気が必要でした。その迷いを吹き飛ばしたのがある講演録でした。被爆直後の広島で医療を続け、民医連の結成にも参加した肥田舜太郎医師(三月に死去)の言葉です。
「医学を志し医療の道に生きようとする人間が、戦争と平和という問題に目をつぶり、人間が大量に殺される問題とは無関係に、自分の目の前にいる命だけなんとかしよう、そういう思想ではまともな医者にはなれないと私は思います」(第二八回全国医学生ゼミナールでの講演)。
「命や健康を守りたい」思いと、無差別に命を奪う戦争―。「“戦争はあってはならない”と声をあげることは、医師としての存在にかかわることだ」と心が決まりました。
いま生きているのは
よく笑い、よくしゃべる山下さんですが、長く辛い時期を過ごしたこともありました。中学生で摂食障害になり、命まで危うい状態に。宮崎県内に専門医はおらず、入院するには県外に出る必要がありました。そんな時に出会った県内の医師が、「小児は専門外だけど、一緒に治療にとりくんでみましょう」と受け入れてくれました。
その医師は診察のたびに病状を説明し、「病気は克服できる」と励まし続けました。「先生に出会わなかったら治らなかったし、いま生きていないかも」。
宮崎の子どもたちをささえ、寄り添う存在になりたい。医学部合格を主治医に報告すると「いっしょに宮崎の精神医療をすすめよう」と励ましてくれました。
私に求められること
一年生で民医連と出会いました。研究者である母のすすめでした。
初めて奨学生会議に参加した時、「健康や病気の背景にある社会のことを考える」姿勢が新鮮でした。子どもの貧困や学校教育、いじめの問題など子どもを取り巻く社会のことに興味を抱き始めていたからです。
昨年は、医学生のつどいで東日本大震災の被災地へ。放射線量が高い地域で暮らす福島の人たちをささえる医療人とも出会いました。「医療を守る人がいるから住民は住み続けられる。それを目の当たりにして、宮崎で私に求められていることは何だろう? と考え続けています」と。
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「民医連を『偏っている』という人もいるけれど、それでもいい。民医連がめざす“無差別・平等の医療”や“戦争のない平和な世界の実現”を求めている人が必ずいる。学んだいま、そう確信しています」。
同じ志を持った民医連の仲間たちといっしょに働く日を心待ちにしています。
(民医連新聞 第1650号 2017年8月21日)