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民医連新聞

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『ピカに灼かれて』の発行を被爆者からひきついで ――広島医療生協 2年目職員

 国連で核兵器禁止条約が採択され核兵器廃絶へ大きく前進しました。その原動力は、被爆者たちが体験を語り廃絶を訴え続けてきたこと。広島に原爆が落とされて七二年、被爆者の平均年齢は八一歳を超えました。広島医療生協では、高齢になった被爆者たちが継続できなくなった被爆体験記『ピカに灼かれて』づくりを青年職員が引き継ぎ、被爆体験を聞きとりまとめる活動を二〇〇六年から毎年とりくんでいます。職員研修に位置づけ、入職二年目の職員が担います。今年も作業がスタートしました。(土屋結記者)

 『ピカに灼かれて』は、広島医療生協の組合員でつくる「原爆被害者の会」が、一九七七年から毎年発行してきました。しかし、高齢化に伴い編集作業が困難になり二〇〇五年で発行を最後にすると決まりました。「このまま無くしてもいいの?」と、広島医療生協の職員たちが議論し引き継ぐことにしました。
 聞きとりは三人程度のグループで、証言者探しから行います。患者や利用者、職員の親戚などから証言できる被爆者を見つけます。「被爆者は確かに高齢化していますが、語ることのできる人はまだまだいます」と生協組合員で、編集委員も担っている生協平和関連実行委員会の鈴木孝良さん。
 実際に話を聞く時に重視しているのは、被爆直後の話だけでなく、投下の前の生活やまちの様子も聞くこと。患者や利用者の背景を見ることの重要性を認識してもらうことも狙いです。
 アポイントも自分たちで行い、いざ聞きとりへ。「とても難しい課題ですが、みなさんきちんとやりとげます。しかも、一度協力して下さった人が再登場することはありません」と鈴木さん。

聞くだけでなく

 七月五日から始まった事前ガイダンスで、一人五冊普及しよう、という提案もされました。体験を聞いてまとめるだけでは、被爆体験を受け継いだことにはならない、という発想です。「体験はひとつひとつ似ているようで、その人ならではの中身が必ずあります。読んでもらってこそ意味がある」と鈴木さん。
 また、被爆体験をまとめた冊子は他にもありますが、『ピカに灼かれて』ならではの特徴が。それは、聞きとった職員たちの感想も載せていること。被爆者たちは若い人が体験をどう受けとったのかを、職員たちは若手職員の成長を見ることができます。
 「紙カルテのときは何気なく目に入っていた被爆者の情報が、電子カルテになったことで分かりにくくなった」と、このとりくみを担当してきた有馬陽子法人事務局次長。若手職員がこの活動で証言者を探すところから主体的にとりくむことで、患者、利用者の社会的背景を注視できる力を身につけていきます。

証言者からとりくみを見て

 八年前に体験記に協力してくれた組合員の八木義彦さんは、この活動を「とても重要」と話します。
 八木さんは一一歳で被爆しました。地元新聞への被爆体験の投稿をきっかけに、小学校などに呼ばれて被爆体験を語っています。しかし現在八三歳。「被爆者の平均年齢を超え、あと一〇年生きられるかどうか。いつまできちんと話せるか考えれば、残された時間はもっと短いかもしれません」。
 数年前、同じように被爆体験を語っていた同級生に偶然出会いましたが、一昨年に亡くなりました。集団疎開せず広島に残り被爆した同級生は三〇~四〇人いましたが、八木さんが最後の一人になりました。
 「国連で大きな動きがありましたが、それでも今すぐ核兵器が無くなるわけではありません。本当に無くすためには、若い人たちに運動を受け継いでもらわなければ」と八木さん。
 いま、核兵器は世界で一万五〇〇〇発以上あるといわれます。一発でも使われれば、その報復で世界中どこにでも落ちる可能性は否定できません。八木さんは「広島・長崎で七〇年も前に起きたことだと忘れがちかもしれませんが、他人事ではないはずです。人間が作った核兵器は、人間の力で廃絶できます。核兵器を使わせない、廃絶するため、ひと言でもふた言でもいいから周囲に広げる活動をつづけてほしい」と話しました。

同じ思いする人が2度とないように―

94歳長野サトコさんの被爆体験

 私は、爆心から四kmくらいの建物内で被爆しました。原爆が落ちて気がつくと、建物は真っ黄色で硫黄のにおいが充満していました。なんとか事務所から出た時、「黒い雨」が降っていました。家の方角は焼けていなかったので、雨の中、歩いて帰りました。

「今も魚が焼けません」

 四人のきょうだいのうち、妹と弟の二人だけが帰ってきました。被爆の急性症状は無かったのですが、弟はすぐに亡くなり祖母と二人で焼き場に連れて行きました。焼けていく光景は魚を焼くのと似ていました。弟を思いだし辛くなるので、今も魚が焼けません。
 その後「米軍が来る」という噂が流れ、避難することにしました。電車が動いている駅まで歩きました。川沿いを歩くと、たくさんの死体が流れていかないように結ばれ、いかだのように浮いているのを見ました。今でも原爆ドームから近い相生橋を渡ると、その光景が目に浮かびます。

被爆二世の子は研究材料に

 息子が三人おり、「被爆二世」です。直接被爆していなくても、みな苦しみました。乳幼児の頃からたびたびABCC(原爆傷害調査委員会)に連れて行かれ、全身、すみからすみまで調べられました。それで具合が悪いところが見つかったかどうかは、ABCCは親の私にも教えてくれませんでした。子どもたちは、原爆の影響を調べるための研究対象だったのです。先日、ABCCの後身である放射線影響研究所の理事長が、当時のことを謝ったようですが「いまさら何を謝るのか」と怒りの気持ちです。
 次男は被爆二世として証言活動をしています。その姿を見て「子どもががんばっているのに、私は何もしなくて良いのか」と、私も証言しています。
 被爆体験を聞こうとしない人もいます。被爆者の中にも体験が辛すぎて、話したくないという人がいます。私は「原爆がなければ息子はあんな目にあわずに済んだ。原爆も戦争も二度とないように」と語っています。話さなければ、私の体験や思いは誰にも伝わりませんから。

(民医連新聞 第1649号 2017年8月7日)