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民医連新聞

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Borders 時々透明 多民族国家で生まれて (6)ついてくるもの

 嫌いだったネブラスカをやっと脱出できたのが、18歳の夏の終わり。ミズーリ州セントルイスで、大学生活が始まった。田舎育ちの僕にはセントルイスは都会で文化や民族の多様性がある所だった。ネブラスカと同じように夏は蒸し暑いが、風はあまり吹かない。
 越してきた日、風の音がしない街は妙に静かで、今すぐにでも大きな事件が起こるような気がしたが、何一つ起きなかった。他の新入生と同じく僕も淀んだ湿気と熱の中で汗をかきながら、荷物を寮の部屋に運んだ。くたびれた寮は築40年ぐらいだった。廊下の壁は傷だらけで、まるで無数の声が刻まれているかのように見えた。
 狭い3人部屋への引越しが終わって両親にさようならをすると、いきなり大きな変化があったという気に襲われた。まるで砂浜に書き終わった長い文章が、すぐさま波に洗い流されたように。濡れている砂に新しく書かなくちゃ。嬉しさもあったが、落ち着けず寮の中を歩いた。各部屋の扉に入居した同級生の名前があり、ゆっくり読んだ。ユダヤ人っぽい苗字が多かった。不思議に感じた。どうしてこの大学に?
 授業が始まる前の1週間。学生たちが打ち解けるために様々なイベントがあった。まだ勉強する必要がない、親から解放された学生たちにはちょっとした天国だった。皆は外で話したり、ビールを飲んだり、音楽を聞いたりしていた。
 自己紹介も何回もした。まず出身を聞かれる。ネブラスカだと言ったら、相手によくからかわれた。「家に電気あるの?」「馬車まだ使う?」。それから音楽、スポーツ、専攻などについて会話した。話の流れで相手の頭の中にある中西部のイメージが見えてきた。中西部は田舎、農場ばかり、100年前のアメリカのような場所だ、と。僕は育った場所がずっと嫌いだったのに、他の人から、あの場所が僕自身の大きな要素だったことに気付かされた。抵抗しても、僕の服、言葉遣い、微妙な訛りなどに明らかに中西部の色があり、東海岸の人と違った。知らないうちにネブラスカが僕に染み込んでいた。風から文化まで。ネブラスカにいた時はずっと「ユダヤ人」や「外の人」という風に感じていたにも関わらず、大学にいる僕はネブラスカの人だと言われて、否定はできなかった。
 結局、ネブラスカから離れて初めて、僕は自分がネブラスカ人だと感じた。


文 ヘイムス・アーロン 東京在住のユダヤ系アメリカ人。セントルイス・ワシントン大学院生、専門は人類学。1977年生まれ、ネブラスカ州育ち

(民医連新聞 第1645号 2017年6月19日)

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