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民医連新聞

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「核兵器廃絶」「命の平等」 貫いた人生―“引き継ぐ” 肥田舜太郎先生を偲ぶ会

 全日本民医連の結成(1953年)に参加し、被爆医師として活動した肥田舜太郎医師が3月20日、100歳で死去しました。「お金のあるなしを医療に持ち込まない」「核兵器と人類は共存できない」ことを生涯貫いた故人を「偲ぶ会」が5月7日、埼玉県内で開かれ、400人超が別れを惜しみました。(丸山聡子記者)

 「肥田舜太郎先生を偲ぶ会」は、日本原水爆被害者団体協議会、埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)、全日本民医連、日本医療福祉生活協同組合連合会、医療生協さいたま、埼玉民医連の合同で開催しました。

生涯を決めた“ヒロシマ”

 肥田医師は一九一七年広島生まれ。軍医となり、四四年に広島陸軍病院に赴任しました。翌四五年の八月六日、広島市郊外で被爆しました。直後に入市し、被爆者の救援と治療にあたり、生涯で診た被爆者は六〇〇〇人を超えます。
 戦後は、全国各地で誕生した民主診療所のひとつ、東京・西荻窪診療所の初代所長となり(五〇年)、五三年には埼玉へ。第五回総会から一九年間、全日本民医連理事を務めました。この間、看護担当として民医連看護の基礎を築きました。
 七九年に日本被団協被爆者中央相談所理事長に。被爆者の相談、診察に力を注ぐ一方、国内外で被爆の実相と核兵器廃絶を訴えました。二〇〇九年に医療活動を引退。一一年三月の福島原発事故後は三〇〇回以上も講演し、被災者に寄り添い続けました。

確かにバトンを継いで

 偲ぶ会では全日本民医連の藤末衛会長が開会あいさつ。生前の肥田医師について「被爆者の相談や医療を通じて、人権とは何か、医療や政治はどうあるべきか、追求された」と紹介しました。「核兵器禁止の具体的な道程に入りかけた時に、先生のバトンを私たちは確かに継いでいきます」と決意を語りました。
 肥田さんが出演した鎌仲ひとみ監督の映画「ヒバクシャ―世界の終わりに」の一部を上映。鎌仲監督は「命の主人公となるために、内部被ばくの問題にとりくんでいく」とあいさつしました。
 日本被団協、しらさぎ会、医療福祉生協連からもお別れの言葉が。しらさぎ会で四〇年来の交流があった堀田シヅエさん(九七)は、「一月に先生が『がんばる』と言っていたから、私も一軒一軒訪ね歩いて、ヒバクシャ国際署名を集めています。みんなでやるから大丈夫。核兵器廃絶までがんばります」と語りました。

***

 長男の泰医師(全日本民医連元会長)が遺族を代表してあいさつ。「目の前で死んでいく被爆者に医師として何もできなかった。核兵器はなくす、生き残って苦しむ被爆者に徹底して寄り添う、これを貫いた」と父を語りました。「お金で医療に差別を持ち込んではならない」と実践したことも「父の役割だった」と紹介しました。
 「核と人間は共存できないことをいかに世界の人々が自覚できるか。難しい問題を乗り越えるカギはそこにある。私なりに継いでいきたい」と結びました。

(民医連新聞 第1644号 2017年5月22日)