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民医連新聞

民医連新聞

福島・高野病院に民医連から医師派遣 「こころ」ひきつぐ支援を

 全日本民医連は、昨年末に院長が火災で亡くなり、常勤医を欠く事態に陥った福島県広野町の高野病院への医師支援を開始しました。同院は、東京電力福島第一原発から二二kmの距離にある民間病院です。原発事故で緊急時避難準備区域に、翌年三月末日まで全町避難となる中、とどまって医療を続けました。現在も双葉郡で唯一稼働する病院です(内科・精神科一一〇床)。二月五日、民医連から一人目の支援医師・山田秀樹さん(東京・立川相互病院、全日本理事)と、岸本啓介事務局長や福島県連の鈴木隆夫事務局長らが同院へ。法人代理人の馬奈木厳太郎弁護士にも聞きました。(木下直子記者)

 病院は、JR常磐線いわき駅をさらに北上した広野駅最寄りの高台にあります。駅周辺は更地が多く、土地のかさ上げ工事も進行中で津波被害があったことを伝える景色。幾棟も並んだ二階建てのプレハブが目につきますが、原発作業員や除染作業員の宿舎です。広野町が避難指示を解除したのは一二年三月末、事故前五〇〇〇人だった人口は、五二%程度に回復したと発表されていますが、半数は作業員で、戻った町民ではありません。

■病院と懇談

 岸本事務局長が髙野英男院長(81)の遺影に花を供え、院長の次女で理事長の髙野己保(みお)さんと懇談しました。病院は国や県も参加した緊急対策会議で「患者とスタッフを守る支援を」と要請。患者の転院は考えていないというスタンスも表明しています。
 冒頭、髙野理事長が現状を報告しました。この状況でも離職者は出ていません。現在は院長不在を埋めるため三月末までの期間限定で来ている医師がおり、四月から院長を担う医師も見つかりました。また震災前から約二〇年間、同院に医師を派遣している杏林大学は今後も継続。それでも髙野院長の仕事を担いきれるかは不透明です。
 岸本事務局長は民医連が「地域医療を守る」の一点で同院からの支援要請に応える、とあらためて伝えました。具体的には、体制が埋まっていない月曜の内科外来と日曜夜の当直(月二回)を担当します。

馬奈木弁護士の話

 双葉郡の医療体制は、高野病院をのぞけば診療所がある程度です。原発事故前は郡内に三九人居た常勤医も、髙野院長一人になっていました。
 病院は財政的にも苦労しています。新年度から常勤医師二人のめどがつきましたが、本当は三人欲しいところです。原発事故で多くの住民(患者)が居なくなった上、診療報酬改定も影響しました。収入減の一方、支出は増えました。避難指示のために働き続けられなくなったベテラン職員も少なくなく、原発事故前と同じ医療水準を確保するためには職員の確保と定着が課題です。
 院長の不在には「総力戦」で向かう必要がありました。火災が起きた翌日の一二月三一日から、私や災害医療センター福島復興支援室の小早川義貴医師が病院に詰めました。元旦には佐賀から精神科医師が駆けつけ、小早川医師と二人、引き継ぎノートやカルテ整理など初期の整備をしていただき、事態を受けてできた「高野病院を支援する会」の医師がスムーズに診療に入れるようにしました。病院にとって、小早川先生や震災前から地域医療存続のために来てくれている杏林大の先生方はかけがえのない存在です。
 民医連に支援を相談したのは、皆さんが被災地に最後まで残っている医療団体だと知っていましたし、医療理念も髙野院長に近いと思ったからです。

* *

 生前の髙野院長は、外に出かけることよりも、病院に居て患者の話をとことん聞くことを好む人でした。火力発電所や農業に従事する町民のくらしぶりもよく見ていて、患者に余計な負担をさせまいとしました。死後に一九八〇年の病院開設で作られた「職員心得メモ」が出てきました。「自分を高めようとする努力」「他人をだいぢにしようとする努力」「社会につくそうとする努力」の三点が掲げてありました。
 栄誉や名誉は求めず「そこに患者がいる限り、医療は必要だ」。そんな姿勢で、ヒポクラテスの誓いを忠実に実行した医師だったと思います。人と金と建物があっても心がなければ―。そういう意味でもささえていただきたいのです。

(民医連新聞 第1638号 2017年2月20日)