右半身不随のギタリスト リハビリで生きがい取り戻す ―東京・立川相互病院
今年五月、立川健康まつりで「片腕のギタリスト」湯上輝彦さん(40)がステージに立ちました。四年前に脳出血を発症し、救急搬送された立川相互病院の患者さんです。一命はとりとめたものの右半身不随に。ギターは湯上さんにとって人生そのものでしたが、誰もがもう演奏は無理だと考えました。そんな中、湯上さんはリハビリを担当した同院の作業療法士、長瀬由美子さん(技士長)に「またギターを弾きたい」と話しました。長瀬さんは「分かった」と即答。このひと言が、湯上さんを前にすすめる力になりました。(土屋結記者)
生きる意味、失った
湯上さんは、プロのギタリストでした。ギターと尺八などの和楽器を融合したバンド「SURE SHOT」の中心メンバーとして、作曲からプロデュースまで寝る間も惜しんで活動していました。海外でも活躍し、凱旋の全国ツアーを始めた矢先、三六歳で倒れました。音楽活動の資金づくりでアルバイトをしていた最中でした。
搬送から二カ月後、意識が戻り右半身が動かないことを知った湯上さんは絶望し、自殺も考えました。思いとどまったのは母親の存在でした。退院を前に不安で泣く湯上さんを見て、母親も泣き崩れました。「辛いのは僕だけじゃなかった。何としても生きなくちゃと思った」と振り返りました。
しかし、悩みは山積みでした。退院後は一人暮らしを続けたいと思っていましたが、三六歳という年齢だったため、介護保険が使えません。どう暮らしていくのかは課題でした。
一三歳から親しんだギターは入院中も心のささえになりましたが、同時に現実を突きつけてくる存在でした。「弾こう」と触れてみても、弾けない体だと自覚します。周りにも「弾くのは難しい」と言われ、生きる目的を見失っていました。
力になったひと言
湯上さんは退院後、外来でリハビリを受けるために、長瀬さんと初めて顔を合わせました。入院中の口癖だった「ギターを弾きたい」という言葉をまた口にしました。長瀬さんも「難しい」と言うと思いながら…。
ところが、長瀬さんの反応は「うん、分かったよ」。湯上さんが一番欲しかった言葉でした。陰っていた心が晴れました。「『難しい』は、僕には生きることの否定でした。長瀬さんは思いを受け入れ、前を向いて生きていく力をくれました」。湯上さんはこう話しながら涙を浮かべました。
長瀬さんは、「患者の思いを否定しないのはリハビリの技術。あの時も何気なく出た言葉でした」と振り返ります。前のように弾くのは難しいと見ていましたが、湯上さんと試行錯誤しながらリハビリにとりくみ、片手で弾くスタイルにたどり着きました。マヒのある右手で肩から下げたギターを押さえ、左手だけで押弦しつつ鳴らします。「無理と思っても、親身になって一緒にやってくれたことが重要だった」と湯上さん。
患者と共に歩む
長瀬さんには心がけていることがあります。それは「患者と同じ土俵に立つこと」。患者の要求を大切に、同じ立場に立って考えてみることで、抱えている問題や思いが見えてきます。「そこで初めて患者に寄り添ったリハビリができる」と話します。
立川相互病院では急性期の患者も受け入れており、リハビリで関わるのは一週間、という場合も。たとえ短期でも「その人の人生を考え、専門職としてどう関わるかを大切にする」と長瀬さん。「退院や外来卒業で終わりではなく、さらに先の生活にも目を向けて、『今を共に歩む』意識で一緒にリハビリをしています」。
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倒れてから湯上さんは、こんなことにも気づきました。リハビリの日数や時間が診療報酬で制限されているのです。湯上さんの場合、発症から半年間で終了。弾き続けるにはリハビリが欠かせません。やれば体が動くようになり、やらなければ拘縮がすすみます。自己流では逆に悪化するため、通院が必要で、今は「社会復帰のため」との名目で週一回のリハビリを続けています。「日数や時間で制限することは、患者に『もう生きなくていい』と言うのと同じ」と、改善の必要性も訴えます。
湯上さんは今、リハビリ患者会や病院内の演奏会などで積極的に活動しています。「少しでも長く弾き続けたい」。ギターが再び湯上さんの生きがいになりました。
(民医連新聞 第1629号 2016年10月3日)
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