戦争を経験した社会保障研究者 小川政亮さんに聞く 社会保障削減と「戦争する国づくり」はつながっている
「権利としての社会保障」を謳い、戦後の多くの社会保障裁判に関わってきた研究者の小川政亮さん(日本社会事業大学名誉教授)。一九二〇年一月生まれ。大学三年生の時に突然、その年の暮れの卒業を宣告され、繰り上げ卒業となりました。同時期、日本は米英に宣戦布告。青春時代を軍隊で過ごしました。社会保障を削減し、「戦争する国」になろうと政権がねらう今、後世へ伝えたい思いを聞きました。(丸山聡子記者)
私は戦争中に青春時代を過ごしました。戦争には断固として反対します。戦後七一年が経ち、戦争を知る者が減る中で、戦争がいかに飢えと破壊をもたらすかを、伝えていかなければなりません。
戦争へなだれ打つ時代
父は、一九二三年に日本で初めてできた二つの国立少年院の一つ、浪速少年院の初代院長でした。二二年にできた少年法、矯正院法による施設です。父の口癖は「少年院は司法省(当時)の管轄であるが、刑務所とは違う」でした。職員にも「春風のような和やかさで人に接するように」と言っていたそうです。院の年中行事には地域の人たちも招いていました。
旧制中学四年だった三六年二月二六日のことははっきりと覚えています。陸軍将校によるクーデター「二・二六事件」でした。寒い日でラジオは朝から何も伝えず、不安な思いで過ごしました。
この日を境に、進歩的、リベラルな言動はかなり難しくなりました。ここから急速に軍国主義化していったと思います。
三九年に東京帝国大学(現・東京大学)法学部に入学。治安維持法の嵐が吹き不安な時代でした。
とはいえ、学内には軍国主義を批判する空気もありましたし、戦後の私の人生を決定づける経験もしました。大学二年の夏に軍事扶助受給家庭の訪問調査に参加し、夫や息子を戦争で亡くした家族から生活の苦しさを聞きました。三年では、工場で働く少年労働者から、労働、生活などについて聞きました。法学者で、戦後は民主主義科学者協会の初代幹事長となった風早八十二さんの『日本社会政策史』に強い感銘を受けました。
四一年の一二月に大学は繰り上げ卒業。同月八日、日本軍がアメリカの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛け、米英に宣戦布告しました。日本は泥沼の太平洋戦争に突入していきます。兵力不足を補うための繰り上げ卒業だと分かりました。翌年二月に召集され、天皇と皇居を守る近衛聯隊(このえれんたい)に入隊しました。
勉学を続けたかったが、どうしようもなかった。私の配属は国内でしたが、学友たちは激戦地へ送り込まれていきました。ただ、学生出身の多くの兵士が「戦争に負ける」と考えていたと思います。
敗戦―「もう焼かれずにすむ」
四五年三月一〇日の東京大空襲。皇居を護衛していた私の頭上を、空を覆い尽くすほどの米軍機がバラバラと飛んで行き、三時間で一〇万人が死亡しました。
四月には伊勢神宮(三重)の護衛を命じられ、赴きました。ところが食べる物がないのです。蛇やカエル、ネズミを食べたこともありました。当時は全国の神社の頂点だった大切な伊勢神宮を護衛する近衛聨隊さえこの有様ですから、日本中がひどい飢えの状態にあったということです。
同じ部隊に、中国から帰ってきた兵士がいました。自分たちが中国人にどんな残虐なことをしたかを自慢げに話すのです。
彼らの一部は「負けた」と知るやいなや軍隊から脱走しました。報復を恐れたのです。近年、当時の日本軍の蛮行を「嘘だ」と否定する人たちがいますが、ここからも事実は明らかです。
八月一五日の玉音放送で日本の敗戦を知った時は、悲しいより嬉しかったです。日本中が空襲を受けていましたから、「もう家が焼かれることはない、命が奪われることはない」という思いでした。
社会保障の根本は
終戦翌年の四六年五月、二・二六事件以来日本で禁止されていたメーデーが行われました。労働者が歌う「インターナショナル」が聞こえ、冒頭の歌詞「起(た)て、飢えたる者よ」に涙があふれました。
社会事業専門学校(現日本社会事業大学)の創設に関わり、朝日訴訟をはじめ生活保護や社会保障の裁判とともに歩んできました。
戦前は制限だらけで救貧的性格の強かった生活保護は、新しい日本国憲法のもとで二五条に基づく当然の権利となりました。しかし安倍政権は二〇一三年、説明もまともに行わずに生活保護基準の大幅引き下げを強行しました。憲法二五条をふみにじるものです。さらに、自助、共助などと、まるで戦前の恤救(じゅっきゅう)規則(極貧で扶養者のない人しか救わなかった)を思わせるような条文ができています。時代錯誤です。「権利としての社会保障」は見るも無残です。
* *
日本社会ですすむ社会保障削減の動きと、平和憲法を変えて戦争できる国に作り変えることは、根本でつながっています。社会保障の根本は人の命を大事にすることですが、戦争はその逆で、人の命を脅かすものなのですから。
戦争になれば平常の生活はできません。戦争が全ての基準になってしまうのです。ですから、戦争を知る者は皮膚感覚で「戦争に反対」です。しかし、その者たちが選挙権を行使できないほど歳を重ねた今、安倍首相をはじめとする政治家たちは、安心して「戦争する国づくり」をすすめようとしているのではないか。私たちがあの戦争を覚えている限り、生きている限り、あらゆる機会に戦争はダメだと伝え、若いあなたたちに引き継いでほしいと思います。
おがわ・まさあき 1920年生まれ。日本社会事業大学名誉教授、生存権裁判を支援する全国連絡会前会長。朝日訴訟をはじめ、藤木訴訟、堀木訴訟など数々の社会保障裁判に関わり、原告の理論的支柱となる。著書に『権利としての社会保障』『社会保障権 歩みと現代的意義』など。
言論を制限し、戦争へ突きすすむ
小川さんが体験した時代
治安維持法は1925年に成立した“希代の悪法”です。国家に異を唱えたり、「戦争反対」を掲げてグループを作ると逮捕され、最高刑は死刑でした。この悪法に最後まで反対し、後に暗殺されたのが、代議士の山本宣治です。その通夜の席で、病気になっても病院にかかれない貧しい人たちの医療機関として、無産者診療所をつくる相談がされました。民医連のルーツです。
小川さんが「この日から軍国主義が強まった」と指摘する2・26事件は、36年2月26日に陸軍青年将校が1500人の部下を指揮し、大蔵大臣などを殺害した事件。昭和天皇は戒厳令を敷き鎮圧。これを機に陸軍を中心とする軍部の力が強まり、国民への抑圧と侵略戦争に突きすすみました。
当時の明治憲法のもとでは、兵役は「臣民の義務」でしたが、学生は卒業まで兵役を免除されていました。それが41年には大学や専門学校の修学年数を短縮して繰り上げ卒業に、43年には在学中でも徴兵できるように閣議決定。アジア・太平洋地域に戦争を拡大する中で不足した兵力を補うためです。20万人もの学生が学業途中で学徒出陣させられました。戦争末期の出陣先の多くは激戦地でした。小川さんは繰り上げ卒業の第一期生でした。
なお、明治憲法には、「緊急事態」規定が何重にも盛り込まれていました。災害や非常時を理由に、天皇が「緊急勅令」を発して言論や活動を禁じ、独裁を敷くというものです。
2・26事件では政府が戒厳令を発動、一切の言論や政治活動を禁止。関東大震災(23年)でも戒厳令を発し、軍事独裁の下で多くの朝鮮人が虐殺されました。
また、この規定は民意を無視して悪法を通すためにも利用されました。28年に治安維持法を改悪強化し、最高刑を死刑にしようとした際、帝国議会の反対が多く、一度は否決。そこで緊急勅令を発し、改悪を強行したのです。
現在、自民党は自らの改憲草案に「緊急事態」条項を盛り込んでいます。発令すれば、「内閣が法律と同じ効力の政令を制定できる」「首相が財政処理できる」など、明治憲法の「緊急事態」規定と酷似しています。
(民医連新聞 第1626号 2016年8月15日)