ビキニ事件 船員たちが62年目に国を訴えた
1946~58年、アメリカは太平洋で核実験を行いました。そこで起きたのが54年の「ビキニ事件」です。第五福竜丸の被害で知られていますが実は「死の灰」と呼ばれる放射性降下物の被災船はのべ992隻にのぼるとみられています。今年5月、高知で被災船の元乗組員やその遺族が国家賠償訴訟を起こしました。日本政府が「無い」としてきた被害の記録を見つけ開示させたのです。7月1日、高知地裁の第1回口頭弁論で、原告は「国は被ばくの情報を隠し、船員の健康を守る措置を怠った」と訴えました。歴史から消されかけていた事件の真相。追究を続けた人がいなければ、隠されたままでした。
(土屋結記者)
四五人の原告のうち、遺族原告は二〇人。その一人が高知医療生協の組合員・下本節子さんです。父・大黒藤兵衛さんが遠洋漁船・第七大丸の通信士として乗船し、ビキニで死の灰を浴びました。
事件当時は三歳。父親がビキニで被ばくしたと知ったのは約三〇年後でした。高知民医連も関わった被ばく船員の「室戸健康調査」に藤兵衛さんが参加したためでした。「父は一四年前に胆管がんで亡くなるまで事件の話をしませんでした」と、節子さん。
語らなかった被害者
第五福竜丸が焼津港に帰ると、漁業関係者だけでなく、流通から家庭まで、日本中が不安に覆われました。ところが乗組員たちは事件のことを話そうとしませんでした。「国が行った検査のことは口外するな」「言えばアカ(左翼的な考えの人を蔑視した呼び方)だ」などとささやかれ、重苦しい空気でした。日米両政府が「原子力の平和利用」をアピールしていた時期です。日本が原発導入を決めたのは、事件翌年のことでした。
また、漁師たちには「騒ぎを大きくすれば、漁ができなくなる」という恐れがありました。戦後の貧しさの中、生活に直結する問題でした。事件を無かったことにしようという力が働いていました。
原発事故みて決意した
「そうした流れに、私も無自覚に乗っていたんです」と節子さん。しかし、福島で原発事故が起き、「直ちに健康に影響は無い」と繰り返し、汚染の情報を隠しながら収束を急ぐ政府の対応と、ビキニ事件の幕引きが重なりました。
「素早く幕引きして時間が経てば、人々は忘れます。隠したい人には都合が良い。ビキニ事件で被災した船は三分の一が高知の船。ここから行動を起こせば、各地の被災船員とご家族も立ち上がれる」と、節子さんは原告に加わった決意を語りました。
「日本は、広島・長崎・ビキニと三度も核兵器で、さらに原発事故での被ばくも経験した国。放射能の怖ろしさを世界に発信し、核兵器廃絶、脱原発に力を尽くすことこそ役割ではないでしょうか」。
地道な運動から訴訟に
「今まで地道な運動がありました」。ビキニ事件に関わってきた静岡民医連の聞間元(ききまはじめ)医師(生協きたはま診療所所長)は語ります。
ビキニ事件を掘り起こした第一の波は一九八〇年代。原爆被爆を調べていた高知県の高校生たち(幡多高校生ゼミナール)が原爆とビキニで二度被ばくした人の遺族に偶然出会ったことが契機に。真実を追究しようと運動が盛り上がり、高知医療生協も参加した船員の健康調査が行われました。「高知県ビキニ被災船員の会」もでき、高知県に事件への対応を要求。国は「資料が無いため対応できない」と回答しました。
被害者は各地に数万人
それから二〇〇九年、愛媛の南海放送が事件のドキュメンタリーを制作して再注目されました。続いて取材した他局がアメリカの公文書から被災船のリストを発見。日本政府はアメリカには資料を渡し、国内で隠していたのです。高校教諭としてゼミナールに関わっていた山下正寿さんが定年後も資料開示を求め続け、二〇一四年にようやく開示に。ところが肝心の船員の氏名は黒塗りされていました。
高知では過去の運動で船員たちのつながりがあり、裁判を起こすことができました。当時、死の灰にさらされた海上には高知船籍以外の漁船、貨物船や海洋高校の実習船などもいました。被害者は各地に少なくとも数万人はいたとみられています。
ビキニ事件が起きたのは、全日本民医連が結成されてから一年足らずの時期でした。医師たちを中心に、マグロ漁船が帰港する各地の港に線量計を持ち、被ばく調査を行ったり、被災船員が集められた宿舎まで行き、血液検査をするなど、被害の解明に奔走しました。
「職員の体制確保なども含め、各地で奮闘したんです。誇るべきことです」と、聞間医師。事件後も健康調査などにとりくんできた歴史があります。また現在、世界の人々も参加して行われている核兵器廃絶を求める原水爆禁止の運動は、このビキニ事件がきっかけで起こされました。
民医連とビキニ事件のこと
いのち守る立場で
聞間医師は今、ビキニ事件を労災問題として被害者救済につなげられないか、探っています。遠洋漁業の船員たちは、乗船のたびに船員保険に加入していました。
「仕事で海に行き、被害にあった。これは労災です。認定されないとすれば、それは人権侵害でしょう」。
被災船員からのツテをたどりながら、元船員に会いに遠方でも足を運んでいます。がんにかかった人、通院中の人、遺族の相談にも乗りながら、労災申請の働きかけをしています。
広島・長崎、ビキニ、福島と、それぞれで被ばくにかかわる訴訟が起きています。詳細は違いますが、背景には共通する問題があります。「私たちが生きる社会は、一歩間違えると重大な健康被害を及ぼし、人権を侵害してしまいます。いのちを守るという視点で社会を見つめ、行動しなければなりません」と聞間医師は話します。
地元・高知をはじめとする民医連でも、原告を囲んで医系学生が話を聞くなど、問題を引き継ごうという動きが起き始めています。
太平洋での核実験…マーシャル諸島でアメリカが行った核実験は、日本への原爆投下から7カ月目に始まり、58年の終了まで67回。太平洋沿岸の広域が汚染 された。54年3~5月、ビキニ環礁などで6回の実験がされ、3月1日の水爆「ブラボー」の実験で、操業中の静岡県の第五福竜丸の乗組員23人が「死の灰」を浴びた。急性症状が出、半年後に久保山愛吉さんが死亡(40歳)。汚染マグロは廃棄されたが、54年末に政府はマグロの放射能検査を中止。翌55 年、漁業の損害などへ200万ドル(当時7億2000万円)をアメリカが支払うことで幕引きされた。
(民医連新聞 第1625号 2016年8月1日)