熊本リポート 病院では 施設では 民医連の仲間が語った一ヵ月
熊本での震災発生から一カ月が経過しました。現地の職員は自ら被災し、また地域の医療や介護の機能がダメージを受ける中で、医療・介護活動を続け、また地域に目を向けてきました。四つの事業所の仲間が発災直後から約一カ月を振り返りました。
菊陽病院(菊陽町、315床・精神科 )…オーバーベッドで患者受け入れ
菊陽病院は震源地に近い菊陽町にある精神科病院です。四月二〇日時点で、職員三四一人中、「全・半壊」「避難所」「親戚宅」「車中泊」が三割に。そんな中、病棟維持ができなくなった県内の精神科から、オーバーベッドも辞さず一六人の患者を受け入れました。
「保育園や小中学校が休みになったため、子連れ出勤OKにしました」と事務長の久保田俊平さん。院内保育所は四〇人定員を六〇人まで拡げ、小学生の部屋も設置。卒園児の手も借りました。
四月二〇日からは、友の会の依頼で片付けボランティアを開始。自治体と連携した全戸訪問や車中泊の訪問活動も行っています。
施設も被災。運動室の天井が落ち、各所に亀裂や崩落が。スプリンクラーの誤作動で紙カルテが濡れました。「支援のおかげで一息つけ、今後を考えられるようになった」と、地域連携室の斎藤ひろみ副総師長は話しました。
くわみず病院 (熊本市、 100床)…地域の医療機能が弱る中で
倒壊の恐れが出る病院の続出などで地域の医療機能が弱まる中、医療機能の維持が、くわみず病院に求められました。医師集団はLINEを使って院内や地域の状況を共有。発災数時間後に災害拠点病院の熊本市民病院に倒壊の恐れが出て機能停止、くわみず病院への救急搬送も増加。「救急搬送・ウオークイン数とも通常の三倍。当座は皆で対応しましたが、副院長が南阿蘇から動けず、内科の常勤医師七人では当直が回せなくなって」と、池上あずさ院長は振り返ります。翌日夜に福岡から駆けつけた二人の医師支援で一一二床まで増床し、医療をつなぎました。
看護集団も奮闘。発災後、病院に着き病棟に駆け上がった川上和美総師長の目に入ったのは、ラウンジに集められた入院患者さん。「短時間でベッドを集め、患者さんを守ってくれていました」。駆けつけた職員の中には新卒も。地域住民にフロアを開放、最大八四人が避難しました。
被災者の健康は目立って悪化しています。高齢者施設が被災し退院後の受け皿になれない問題も。市民病院が被災したことも、地域医療を守る意味を考えてゆくきっかけになっています。
特養たくまの里 (熊本市東区、50床)…施設を地域の避難所に
特別養護老人ホームたくまの里では、けが人は無く、施設にも大きな被害はなし。一六日夜は五一人の利用者がおり、ベテラン一人と二年目職員二人で避難誘導をしました。施設長の作取久さんは「東日本大震災を参考に、入念な避難訓練をしていたのが活きた」と。経験年数の浅い職員も落ち着いて動くことができました。
施設開所の際、「災害などの時は避難所に開放する」と決めていたため、隣のスーパーの駐車場に避難していた住民を受け入れることに。最大で九〇人が身を寄せたため、発災から一〇日間は一階フロア全体を開放。一部開放も四月末まで続けました。各地の高齢者施設でつくる「21老福連」が炊き出しを担ってくれたため、避難者に食事も出せました。
なお、たくまの里は福祉避難所の指定を受けていましたが、開設できませんでした。普段から人員に余裕がなかった上、職員が被災し「受け入れたくてもできない」状態。今回の地震では、福祉避難所が機能しない問題が浮上しています。「こうした災害の場合、行政主導で被害の少ない地域を中心に受け入れも考えられないか」と、作取さんは指摘しました。
八王寺の杜(熊本市)サ高住(28室)ほか小規模多機能居宅介護など…人の少ない施設が被災して
八王寺の杜はサービス付き高齢者向け住宅に、訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所、小規模多機能型居宅介護施設を併設。一六日の本震で職場に来られたのは、管理者四人のうち、所長の藤田信一さん一人だけでした。小規模多機能施設に宿泊していた七人と、サ高住の入居者二六人を、所長含む職員三人で、めちゃくちゃになった部屋から救出。踏み込んで「ダメか」と思った人もいましたが、打撲程度で済みました。
全国支援が入るまでが苦しい一週間でした。「緊急時は管理部が集まる―。という初動も不可能になるとは」と藤田所長。利用者に出す食料が尽きかけ、分けあってしのぎました。防火用の自家発電電源を各階数カ所のコンセントから使えるよう設計していたことで、停電しても燃料を補給し、ポットやレンジが使えました。
二七人の職員中正規は七人。「人手の少ない施設が災害にあうと大変です。他のサ高住では、建物が被災したからと入居者を避難所に連れていっただけの所もあったと聞きます。この経験を活かせたら」と藤田さんは語りました。
職員・支援者守る「ヘルスケア」のとりくみ
今回、職員や支援者のヘルスケア対応が初期段階からとりくまれました。これまでの災害の教訓に基づくものです。「『職員を守る』という方針を全日本民医連が掲げたことで『自分たちは大切にされている』と職員にも伝わります」と、熊本県民医連の吉田京子副会長。全日本民医連理事の田村昭彦医師とともにこの問題を担当し、支援者の見守りも行っています。
全職員対象のストレストリアージの結果、医師の面談や休養を指示される職員も。発災直後のチェックでは何らかの対応が必要と判断された職員が約1割(1病院)。個々の職員にどう対応すれば良いか、客観的な基準が明らかになることで、職責者の負荷も軽減されます。
医療過疎の村で甚大な被害
民医連内外の支援チームで医療守る
南阿蘇村
南阿蘇村は、死者一六人、行方不明者一人、重軽傷者九〇人、避難所への避難者三〇四三人、家屋全壊五〇〇棟以上の被害を受けました。村に民医連の事業所はありませんが、同村に住むくわみず病院副院長の松本久医師が支援に入り、村の医療をささえました。
■南阿蘇村での被害は
一六日の地震で主要なトンネルと橋が崩落し、村は一時、〝陸の孤島〟となりました。高齢化率は三五%超、もともと住民当たりの医師数は全国平均の五分の一という医療過疎地。地震で入院機能のある唯一の病院が診療困難となり、医療は危機的状況に陥りました。
被害の大きかった長陽地区の避難所には、被災直後から続々と避難者が到着。深夜の地震で着の身着のまま、寝間着に素足という人も。避難所はすぐに満杯になり、隣の南阿蘇中学校体育館を開放。水も電気も止まり、土足で入り、余震の不安から靴を履いたまま仮眠をとる人もいました。懸命の努力のもとでも、トイレなどの衛生管理が十分ではない状況でした。
松本さんは、被災直後の避難所の様子から困難を予測。法人・県連と相談の上、一八日から日本医師会JMATの医師として村の医療活動に従事しました。
DMAT(災害派遣医療チーム)や日赤、国境なき医師団など支援チームが続々と到着。「それぞれバラバラに行動し、村の保健師が携帯電話を手に走り回っていた」と松本さん。医療スタッフの合同会議を提案し、松本さんが村の保健センター長(保健師)をサポートする「医療コーディネーター」になりました。
毎日二回の定例会議で情報共有と課題を整理。三つの仮設診療所の設置や感染症対策など、連携して支援することができました。
■民医連の支援
一九日には、鈴木諭医師(群馬)が到着し、久木野地域で仮設診療所を立ち上げ、診療開始。同診療所に民医連医師はじめ多職種の支援が入りました。MMAT委員の下林孝好医師(奈良)は、地域の民生委員と連携して地域訪問し、情報を共有しました。「支援終了後は地域で担えるように、です。当初から地域と連携できたのは、民医連ならでは」と松本さん。
連休中には谷川智行医師(東京)などが地域訪問。いっしょに地域を回った看護師の遠山雅子さん(山梨)は、「被災後、飲み込みが悪くなった、眠れなくなった、という人もいました。避難生活で筋力が落ちている人も多く、今後は生活支援やアセスメントが必要と痛感しました」と言います。
松本さんは約二週間のコーディネート業務を終了し、くわみず病院に戻りました。「民医連の事業所がない地域でも、多くの医療者と合意できれば、必要な人に必要な医療を届けるために協力できる、と確信しました。災害時は事前の想定が通用しないことも多発します。日常的に地域活動をする民医連が力を発揮し、地域の他の医療機関との連携が必要です」。
(民医連新聞 第1620号 2016年5月23日)