曙ブレーキ・アスベスト裁判で勝利和解 埼玉民医連が支援 被害者とともに 相談会チラシ配り “苦しむ人見ぬふりできない”
埼玉県にある曙ブレーキ工業羽生(はにゅう)工場の元従業員とその遺族ら一四人が、工場の作業でアスベスト(石綿)を吸い込み、アスベスト疾患に罹患したり死亡したとして同社に賠償を求めていた裁判で昨年一二月、和解が成立しました。同社が原告らに遺憾の意を表し解決金を支払う内容で、原告の訴えをほぼ全面的に認めたもの。埼玉民医連が裁判前から相談会や被害者掘り起こしなどで、支援してきました。(丸山聡子記者)
防護策怠った企業
一九二九年に「曙石綿工場」の名で創立した同社は、自動車や列車のブレーキ製造で世界的シェアを占める企業。ブレーキ製造過程で二〇〇〇年まで石綿を使用していました。その際に局所排気装置の設置や従業員に防じんマスクを着用させるなど、防護措置を怠ったため、従業員はアスベスト疾患を発症し、死亡者まで出ました。
元従業員と遺族で作る「被害者の会」が申し入れた謝罪と賠償に会社が応じなかったため、会のメンバーを中心に、二〇一二年に会社を提訴しました。
裁判で会社側は「適切な安全確保措置を講じた」と主張。しかし、一九六〇年代から三〇年以上働いてきた原告らは、「粉じんが舞い、工場全体が煙っていた。支給されたガーゼマスクをしても鼻の周りが真っ黒になった」「工場内は二~三メートル先も見えない状態で、苦しくて何度も辞めようと思った」と証言し、会社の主張を否定しました。
従業員・遺族とともに
工場がある羽生市は、曙ブレーキの企業城下町として発展。退職者の間では肺がんなど呼吸器疾患が多いことが知られていました。
二〇〇五年の「クボタショック」を機に元従業員の五月女行雄さん(後に原告団長)や遺族が「被害者の会」を結成。埼玉民医連もケースワーカー部会を中心に支援を始めました。羽生工場周辺に住む組合員に電話をかけ、被害実態を調査しました。
埼玉協同病院のケースワーカー・竹本耕造さんは真夏の暑い中、「被害者の会」の人たちと相談会のチラシを配って歩きました。「会社に反旗を翻すのは大変なこと。ましてや企業城下町です。“被害をなかったことにしたくない”と声をあげた人たちの力になりたかった」と言います。アスベスト問題にとりくむ弁護士や建設労働者の組合とも協力し、相談会を重ねました。
元民医連職員の赤坂勝己さん(「曙ブレーキ・アスベスト被害賠償訴訟を支援する会」事務局長)は、最初に訪問した患者さんの姿が忘れられません。「咳がとまらず、眠ることも起き上がることもできない状態。それなのに労災申請すらしていませんでした。訪問から二カ月ほどで亡くなりました」。
会社の健診で「じん肺管理区分4」と重度の診断が出た人もいました。すぐ労災申請し、認定されました。「会社は深刻な健康状態を知っていて放置した。“働くひとびとの医療機関”である民医連職員として見て見ぬふりはできませんでした」と赤坂さん。
全被害者救済求め
原告団と「曙ブレーキ・アスベスト被害賠償訴訟を支援する会」は毎月、羽生駅頭で地域の人たちに支援を訴える宣伝を続けました。宣伝中に相談が寄せられたり、高校生が駆け寄って署名するなど、まちの雰囲気を変えていきました。
埼玉民医連の宮岡啓介医師も裁判で証言し、会社の「労災認定は間違い」との主張に医学的見地から反論。この証言が決定打となり、和解協議が始まりました。
* *
和解成立後の記者会見で、原告らは口をそろえました。「健康を害され、今も不安で苦しい日々を送っている元従業員がたくさんいる。会社はこの苦しみを真摯に受け止め、一日も早い救済を」。
アスベスト疾患の発症のピークはばく露から二〇~四〇年後。被害者は今後もさらに増えると予測されます。赤坂さんは、「地元の病院で、医師から『石綿で間違いない』と診断されながら救済制度に結びついていない人もいました。全ての被害者の救済まで支援を続けたい」と言います。
医療生協さいたまでは、問診で職歴を聞くなど工夫もしています。
医師意見書を書いた小池昭夫医師(埼玉協同病院)は「今後も理不尽な扱いに苦しむ人を支援していく」と話していました。
(民医連新聞 第1617号 2016年4月4日)