九条の会事務局長・小森陽一さん(東京大学教授) 「二〇〇〇万人署名が戦争法廃止の流れをつくる」 キックオフ集会での講演から
一二月一九日に全日本民医連が行った「戦争法廃止・二〇〇〇万人統一署名推進キックオフ集会」で、小森陽一さんが「戦争法を廃止し、憲法の理念がいきる日本に」と題して講演し、署名の意義を語りました。要旨を紹介します。(丸山聡子記者)
この署名は、昨夏の戦争法案反対の行動を展開した「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が、戦争法成立後も共同を崩さず、同法の廃止を求めてとりくんでいます。
署名を通してつながる
戦争法成立後、産経新聞が行った世論調査で、戦争法案反対の運動に「なんらかの形で参加した」人は三・七%、今後「機会があれば参加したい」と答えた人は一七%超いました。計約二〇%、人口換算で約二〇〇〇万人です。
各種世論調査で「安保関連法案は廃案にすべき」と答えた人は平均で六割。この声を確固たる世論にするために、「機会があれば参加したい」と答えた一七%の人と署名を通してつながり、運動をさらに大きくすることが大事です。
強行採決の際、国会前で「野党は共闘!」のコールが起きました。日本共産党はその日のうちに「国民連合政府」を呼びかけました。ここに新たな運動の可能性があります。参議院で戦争法廃止の流れを作り、解散総選挙へつなげましょう。
「安保闘争」の歴史
日本が警察予備隊を発足させ、再軍備に踏み出したのは一九五〇年の朝鮮戦争勃発が契機です。アメリカと日本は、五一年にサンフランシスコ講和条約と旧日米安保条約を結びました。
この時、安倍首相の母方の祖父でA級戦犯容疑者の岸信介が登場しました。「アメリカ押しつけの憲法を変え、九条をなくし、自主憲法の制定」を訴え、政権につきました。六〇年一月には、アメリカとの間で日米安保改定を決めました。五月、警官隊が反対派を排除し衆議院で強行採決。六〇年安保闘争が起きました。
これを境に日本のメディアはデモや集会を報道しなくなりました。浅間山荘事件など暴力集団の姿を強調し、運動=暴力と刷り込み、運動は衰退しました。
そうした経過がありつつ、昨夏には「安保闘争」と呼べる共同の運動が起こったのです。
危険な集団的自衛権
夏の運動は「違憲の法律は許さない!」という思いが一気に広がったものでした。廃止の運動を広げる、改めて危険な戦争法の中身をしっかり学び、訴えていくことが必要です。
〇三年に起こされたイラク戦争は、米英が集団的自衛権を行使したものです。〇一年のアメリカ同時多発テロの直後、当時のブッシュ大統領は「テロとのたたかい」を宣言し、アフガニスタンへ空爆を開始。自衛隊は戦闘行為への初の協力として、インド洋での給油活動を行いました。
米英両国は、「イギリスが武力攻撃されることが予測される事態を、同国が武力攻撃されたと同じだとし、米英の二国間軍事同盟の集団的自衛権に基づく先制攻撃を行使する」としてイラク攻撃を始めました。
日本が集団的自衛権を行使できれば、同じ論理は日米でも通用します。例えば北朝鮮のミサイルの脅威を口実に日米が同国を攻撃することが可能です。
小泉政権が成立させた武力攻撃事態対処法で武力攻撃ができる条件は、「武力攻撃があった事態」「武力攻撃の危機が迫っている事態」「武力攻撃が予測される事態」の三つでした。今回、「集団的自衛権にもとづき、我が国と密接な関係にある国に武力攻撃が予測される事態」を追加しました。これは極めて危険な内容です。
政治を変える主体に
〇四年に行われた世論調査では、「憲法を変えた方がいい」と答えた人は六四%で、 「変えない方がいい」の二二%を上回っていました(読売新聞)。九条の会は同年に発足しました。翌年には三〇〇〇の会が日本中にでき、〇八年には一五年ぶりに「変えない」が「変える」を上回りました。自衛隊のイラク派遣を問う裁判で「違憲」の判決が名古屋高裁で初めて出ました。
昨夏の国会前では民主、共産、社民、生活の四党首が揃って手を結びました。世論で政治は変わると、私たちは経験したのです。
この署名運動を契機に、夏の参院選では一人ひとりが政治を変える主体になって投票し、国の仕組みを変えていきましょう。
(民医連新聞 第1612号 2016年1月18日)