戦後70年 のこす 引き継ぐ 三谷翔さん(96) 「無かったことにはさせへん!」 南京大虐殺を見た18歳の日本兵
戦後七〇年シリーズ、今回は「のこす」立場から。八月二九日、西淀川・淀川健康友の会(大阪)が平和のつどいを開きました。そこでは、日中戦争に参加し、南京大虐殺(※)を目撃した三谷翔さんが、加害の体験を語りました。(田口大喜記者)
大阪に住む三谷さんは九六歳。一九三七年六月、一八歳の時に志願して海兵団に入りました。
同年一〇月、駆逐艦「海風」に乗り中国へ。当直で見張りに立ちました。海風を含む第二四駆逐隊の四隻は、約一カ月かけて、揚子江遡行部隊として南京に到着しました。
一二月一三日、南京陸上から中国軍に砲撃されて、駆逐隊は応戦。すでに陥落寸前だった南京は、三分ほどで抵抗できなくなりました。
南京大虐殺…1937年8月から日本軍が南京への爆撃を開始。さらに進軍し、略奪、暴行、強姦などを行ったのち、12月から翌年の3月上旬にかけて30万人もの人びとを虐殺しました。
■生きているものなかった
その四日後、旧日本軍の南京入城式に参加するために上陸した三谷さんは、そこかしこに積み上げられた中国人の死体の山を見ました。三谷さんの身長ほどの高さにまでなった死体の山は、老若男女の区別はなく、後ろ手に縛られたり、縄で数珠つなぎにされて、弾痕や銃剣で刺された跡をさらして折り重なっていました。
ある民家に入ると、ゼリー状に固まった血の海に、頭のない死体が二つ倒れていました。一八歳の新兵だった三谷さんは耐えられないほどのショックを受けました。
「南京の静けさは今でも忘れない。生きているものは何もなく、飛ぶ鳥さえも見なかった」と三谷さんは当時を振り返ります。
■見張り中に惨殺を見た
翌日、揚子江に停泊する駆逐艦で見張りをしていた三谷さんは、「ダダダダダン!」という重機関銃の音を聞きました。河川敷を見ると、人の群れがバタバタと倒れていくところでした。射撃音の合間には、悲鳴とも怒号ともつかない叫び声が聞こえました。「殺されているのは中国の人だ」と直感。「南京はすでに日本軍が占領した。なのになぜこんなに殺しているのか?」。三谷さんはその地獄絵図のような光景に、ひどく混乱したと言います。
それから毎日、見張りの任務につくたび、そうした光景を目撃しました。朝から晩までトラックで二〇人、三〇人と運ばれては殺されました。夜には、岸辺にいくつもの炎が揺れていて、翌朝望遠鏡から覗くと、人間が焼かれて殺されていたのが見えました。
揚子江は減水期で、殺されて捨てられ折り重なった人間の形が、日に日に現れてきました。
一二月二五日、「海風」が佐世保に向けて出発する最後の日も、日本軍の銃声は鳴り止みませんでした。
「兵士として集められた日本人は殺人鬼や強姦魔ではなく、みんな普通の人間。殺さなければ殺される状況は戦争の常。人間を壊してしまう」。
三谷さんは、証言の終わりに戦争法案の反対と憲法の大切さを訴えました。
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日本に戻った三谷さんは休暇で故郷に帰る時、佐世保で上官から「南京で見たことは口外するな」とかん口令を敷かれました。
しかし三谷さんは口を開かざるをえなくなります。戦後、年月が経つにつれ、一部の政治家や評論家たちが「南京大虐殺は無かった」と言いはじめたからです。「おれはこの目で見たんだ! 無かったことにはさせへん!」と憤りました。
「戦争はダメや。何が何でも戦争法案を通そうとする安倍の根性が憎い」と、三谷さん。「一〇〇歳までは生きられへん。今、伝えな」と真実を語っています。
(民医連新聞 第1605号 2015年10月5日)