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民医連新聞

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第3回評議員会 学習講演 過去に目を閉ざさなかった ドイツは“人間の尊厳”を学んだ 石田勇治 東京大学教授

 第三回評議員会では、東京大学の石田勇治教授(ドイツ近現代史)が「ドイツの『過去の克服』から何を学ぶか」と題して講演。ドイツは第二次世界大戦で日本、イタリアとともに加害に手を染めましたが、戦後の歩みの違いでしばしば日本と比較されます。講演要旨を紹介します。

 ドイツでは「公的記憶」という言葉がよく使われ、「想起の文化」とも言います。「想起」はしばしば「心に刻む」と訳します。

■「心に刻む」努力

 ヒトラー率いるナチス・ドイツは、少なくとも約五五九万六〇〇〇人のユダヤ人を殺害しました(ホロコースト)。ドイツでは、ホロコーストを思い起こし、公的記憶とするとりくみが今も続けられています。
 ベルリン中心部の「ホロコースト記念碑」は、追悼とホロコーストを犠牲者の視線で学ぶことができる公的施設です。「つまずきの石」は虐殺された人の氏名、生年月日、死亡日と場所を印したプレートをその人が住んでいた場所の公道に埋める市民の運動です。
 全国を巡回する移動式モニュメントも。「灰色のバス」と呼ばれ、障害児を持つ親たちがとりくんでいます。第二次世界大戦下のドイツで障害を持つ人などを殺害するために専用施設に運んだのが、灰色のバスでした。ナチスは政権についた三三年、障害者や特定の疾患を持つ人を「生きる価値のない人」として本人の承諾なく断種する「強制断種法」を制定。そして三九年に戦争が始まると、彼らを安楽死させる政策に着手しました。二〇万~二一万人がガス室で殺害されたとみられます。こうして大量に人間を殺害する技術が開発され、その技術とマンパワーはホロコーストに引き継がれました。

■「終わらせたい」流れが

 ドイツの「過去の克服」のとりくみは終戦直後から始まったわけではありません。「終わったこと」にしたい世論と、反対に、過去と正面から向きあおうとする世論のせめぎあいがありました。
 初代首相アデナウアーは反ナチ的民主国家の形成をめざす一方、旧ナチ勢力を排除せず「統合」する、矛盾した政策をすすめました。冷戦激化で再軍備も開始しました。
 そんな中、若者たちがユダヤ人墓地を荒らす事件が発生。教会関係者や学校関係者の中で教義や歴史教育を見直す議論が始まり、「行動・償いの印・平和奉仕」という市民活動も誕生しました。
 五〇年代末~七〇年代初頭にかけては、「ナチ犯罪追及センター」の設置、ナチスと関係のあった裁判官の退職勧告が続きました。六三年には「アウシュビッツ裁判」を開始。裁判は克明に報道され、ホロコーストの実態が明らかになりました。政権は時効成立をめざしましたが、若手議員が抵抗。二度にわたりナチ犯罪の時効は延長されました。
 また、若い世代は家庭で親世代に「あの時、何をしていたの?」と問い、罪を告発していきました。
 六九年、戦争中にナチスへの抵抗運動に参加したブラント氏が首相に就任。終戦二五周年記念式典(七〇年)で初めて、ドイツの加害責任を明確にしました。同年一二月には、関係正常化に向けて訪れたポーランドでユダヤ人犠牲者追悼碑にひざまずきました。

■有名な演説の背景

 七〇年代後半~八〇年代にかけて、過去の過ち、歴史を伝える教育が始まり、平和、脱原発など「新しい社会運動」の担い手が育ちました。七九年にはナチ犯罪の時効を撤廃しました。医学界の一部にも、過去を問う動きが出てきました。八〇年の医学会年次大会にちなんで「ナチズムと医学 タブーとなった過去―破れない伝統か?」との問題提起があり、医学犯罪にメスが入り始めました。ユダヤ人のほかにもロマ(ジプシー)や同性愛者、障害者などナチスの犠牲者はおり、彼らへの補償を求める声も広がりました。
 一方で時のコール政権は「保守的転換」を掲げます。ナチス親衛隊も埋葬される軍人墓地で式典を行い、内外の批判にさらされました。その数日後の終戦記念式典で、ヴァイツゼッカー大統領が「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」という有名な演説をしたのです。国内を意識して語りかけたものでした。
 九〇年の東西ドイツ統一を経て、ようやく「過去の克服」は政策になりました。ナチ時代の強制労働への補償基金を設立。旧東欧やソ連圏の犠牲者一六七万人への補償(総額六六〇〇億円)を行いました。
 ドイツは「過去の克服」のプロセスで「戦争」だけでなく、「人間の尊厳」を学んだと言えるでしょう。(丸山聡子記者)

(民医連新聞 第1603号 2015年9月7日)