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民医連新聞

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戦後70年 のこす引き継ぐ 長崎 私は被爆二世 民医連の仲間とともに 被爆の実相を次代へ――

 一九四五年八月六日に広島、同九日に長崎に、アメリカ軍が原爆を投下してから七〇年目の夏を迎えます。被爆者の平均年齢は八〇歳を超え、被爆地・長崎でも被爆の実相を知らない人が増えています。長崎民医連では、原爆の悲惨さと核兵器廃絶の願いを次代に引き継ぐとりくみが始まっています。被爆二世の職員の思いとともに紹介します。(丸山聡子記者)

 「原爆のことを忘れてはいけない。介護職として高齢になった被爆者たちと接し、その思いを強くしてきました」。大浦診療所のデイサービスで働く赤水ますみさん(四四)は言います。三年前、被爆二世の会・長崎が結成されたことを知り、入会しました。
 長崎市内の小中学校では八月九日は登校日で、原爆が投下された午前一一時二分には必ず黙祷をしていました。社会に出てからも黙祷は“当然のこと”。ところがある年、「そろそろ黙祷の時間だよ」と同僚に声をかけると、「この時間なんですか?」との答え。「知らんやったと?!」と、赤水さんは驚きました。職員の多くが長崎に生まれ育ちながら、原爆投下の時間や日付さえ知らない人もいたのです。「それはいかん。長崎にいるとに」と、つぶやいた利用者の言葉が、胸に刺さりました。
 赤水さんの両親は被爆者です。父親は六歳、母親は五歳で被爆しました。母からは、キノコ雲を見たこと、祖母が子ども三人を抱えて防空壕に飛び込んだことなどを聞きました。
 小学校の担任の先生も被爆者でした。「長崎にいるのですから、原爆のことをきちんと知りましょうね」と、『ナガサキの原爆読本』(県被爆教師の会・編)なども使いながら、分かりやすく話してくれました。「先生は定年目前で、私たちが最後の教え子。思い入れもあったのでしょう。時折、涙を流していました。子ども心に原爆は怖い、憎いと思ったのです」と赤水さん。

■二世の会に入る

 子どもの頃から原爆は身近にあったものの、両親とも記憶が鮮明でない上、お父さんは他界。「自分には語り部はできない」と思っていました。しかし、同僚との会話で原爆の記憶が薄れていると痛感し、「何かしなければ」という気持ちが芽生えました。
 体調への不安もあります。同年代で被爆二世のいとこは甲状腺の疾患を抱えています。六月には白血病で亡くなった同級生もいました。赤水さんも四〇歳を過ぎた頃から、夏でも暑さを感じず、汗をかけなくなりました。
 「年齢的なものもあるかもしれませんが、被爆二世の同級生と会うと、『原爆の影響かね…』と話題になります」と赤水さん。
 会の入会と前後して、担任だった先生を同級生と訪ねました。九〇歳を超えた先生に二世の会に入ったことを告げると、「がんばってね。あの悲惨な出来事を、忘れてはいけないのだから…」と励ましてくれました。
 二世の会の会員は約七〇人。被爆二世の実態調査と健診の充実を行政に求めるとともに、被爆者からの体験聞き取りや子どもたちへの朗読などにとりくんでいます。

■民医連職員の原点

 赤水さんも参加しているのが、長崎民医連が昨年から始めた「碑めぐりガイド養成講座」です。毎月一回、市内の原爆遺構を巡ります。高齢化する被爆者に代わり、原爆の悲惨さを伝えるガイドになることが目標です。
 六月二八日、平和公園に職員の子どもも含め一〇人が集まりました。講師は元県連副会長の田中弘法さん。田中さん手製の資料を手に二時間半、七カ所を回りました。田中さんは一九七〇年代に入職。当時は被爆の記憶も生々しく、患者の多くが被爆者でした。外では原爆の体験に口をつぐむ人も、職員にはポツリポツリと話してくれました。「聞いた者の責任として、原爆の悲惨さと核兵器廃絶への願いを、若手職員に伝えたい」と、ガイドをしています。
 介護福祉士の松永崇嗣(たかし)さんは、この日初めて碑めぐりに参加しました。平和公園から歩いてすぐの場所で育った被爆三世です。これまでは誘われても「よう知っとりますけん」と断ってきました。「子どもの頃とは違った見方ができるかもしれんよ」との言葉に参加してみました。
 松永さんが真剣に見入っていたのは、永井隆記念館と「如己(にょこ)堂」です。永井隆は原爆で妻を亡くし、自らも被爆しながら救援活動に従事した医師です。白血病で倒れるまで、『この子を残して』などの著作で原爆の悲惨さを訴えました。療養・執筆に使っていた庵が「如己堂」です。クリスチャンだった永井医師のために信徒たちが建てました。その一人が松永さんの祖父でした。
 祖父は戦地にいたため原爆を免れたものの、弟一家は全滅。祖母も被爆しました。松永さんは子どもの頃、祖父が話す原爆の話がいやでした。しかし、碑めぐりに参加して気付きました。「永井博士が遺した『如己愛人(己の如く人を愛せよ)』は、祖父もよく使っていた言葉。これは戦争とは真逆の精神。それは、民医連で介護の仕事をする自分の原点なんだ」。
 長崎に住む者として、原爆の記憶を引き継ぎたい―。七〇年目の夏の決意です。

(民医連新聞 第1601号 2015年8月3日)