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民医連新聞

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戦後70年 のこす 引き継ぐ 元従軍看護婦 肥後喜久恵さん(91) 1枚の赤紙で2度の戦争を体験 東京看護介護活動研究交流集会での講演から

 東京民医連は、六月二一日に開催した県連の看護介護活動研究交流集会に、従軍看護婦だったOBを招きました。「看護や介護スタッフの多くが若い世代。戦争法制の動きがある中、戦争の現実を知ろうと考えました」と、増田徳子実行委員長。五〇〇人の参加者に体験を語ったのは肥後喜久恵さん(91)。中国で敗戦を迎えた後、八路軍の捕虜となり、従軍。二度の戦争を体験した肥後さんは「戦争を止める医療者に」と後輩たちに伝言しました。(木下直子記者)

 肥後さんは長野県上伊那地域の農家の生まれです。四番目の子どもで、当時貧しい家が口減らしに行っていた「間引き」にあうところを「殺さないでおこう」と言った父のお陰で生かされました。

◆戦争のただ中の青春

 一九三七年、一三歳の時に日中戦争が勃発。その翌年、戦争遂行のため政府が人も物も自由にできる「国家総動員法」が施行されました。男の子がいなかった肥後さんの家からは、家族のように大切にしていた農耕馬が背中に日の丸をつけ、連れていかれました。
  「嫁入り道具はいらないから」と親に頼み込んで入った女学校にも戦争は影を落としました。敵国語の英語や西洋史、化学などの教科がなくなって畑仕事に。体育の授業のバレーボールは長刀(なぎなた)に変わりました。
 太平洋戦争が起きた一九四一年に県の日赤看護学校に入学。学生数は前年の倍の四〇人、県外から二〇人が加わり、一学年六〇人になりました。戦争で看護婦が必要だったのです。しかも三年の修業期間は一年半に短縮されました。
 日赤では卒後一二年間、召集に応じる義務がありました。卒業翌年の一九四四年、肥後さんにも赤紙(召集令状)が届き、中国・大連の陸軍病院に送られました。
 日本が負けると、八路軍(中国人民解放軍の前身)の捕虜に。「医療技術を提供すれば命は助ける」と言われ、従軍しました。
 帰国は一九五八年。二〇歳で召集されてから一四年も経っていました。ところが、中国帰りは「アカ」と言われ、日赤ですら雇ってくれません。代々木病院(東京民医連)に臨時職員として採用されたのは帰国の翌年でした。

◆従軍して

 歩みをひととおり振り返った肥後さんは、従軍体験に触れます。
 陸軍病院は満州一大きい病院でしたが、そこでさえ食料や薬が不足。担当した結核病棟では悪化してゆく患者をみているほかなく、「病気になった」と家族に知らせる患者を一報患者、「重くなった」と知らせる場合を二報患者、死亡は三報患者と呼びました。死者の納棺は看護婦一人でやりました。「二〇歳そこそこの者にはつらい作業でした。野の花を棺に入れることくらいしかできなかった」。
 八路軍時代は、爆撃が止む夜に運ばれる負傷兵を手当てしました。ある時、暗がりでプップッという音が聞こえました。みれば、体を蛆(うじ)に覆われた全身やけどの患者が、口元にくる蛆を吐き出す音だった、ということもありました。
 蛆は足や腕を切断した人の傷口にも真っ白につき、すべてを取り払う余裕などありません。
 並んで寝ている患者に、死にゆく人がいると、その身体からシラミが一斉に離れ、生きている患者にぞろぞろと移っていきました。
 中国の人たちが侵略国の日本にどんな感情を持っていたかを知る出来事もありました。日本人医師の回診についた時でした。一二、三歳くらいの少女の患者が生卵を投げつけてきました。白衣に流れる卵をぬぐいもせず、診察を続ける医師の顔に、今度は革帯が叩きつけられました。少女は、日本軍の三光作戦(殺しつくす・奪いつくす・焼きつくす)で、家族全員を殺され、一人生き残った子どもだったのです。

◆「引き揚げ者」のこと

 敗戦後、中国から引き揚げる日本人たちの苦難も目にしました。
 ある引き揚げの一団に、二歳児を連れた臨月の母親がいました。子どもが泣くと、狙撃されます。懸命にあやしても泣き止まなかった子を、母親はついに自分の胸に押し付け、殺してしまいます。その後、母親は荷車の上でお産をしました。結局、そこで生まれ落ちた子も、土中に埋められました。
 まちなかには死んだ子どもを背負い「かわいいでしょう?」と見せて歩く女性がいました。路上に倒れた母親の乳房に、無心に吸いついている幼子もいました。
 「そんな光景が沢山…。でも何もできませんでした」と肥後さん。

* * *

 話の終わりに肥後さんは、中国で知ったという言葉を紹介しました。「【大医は国を治し、中医は人を治し、小医は病を治す】という言葉があります。皆さんは大医。世の中をなおさないと、患者さんたちは救えない」。

(民医連新聞 第1599号 2015年7月6日)