いま、福島で聞く、見る、考える 民医連 福島被災地視察・支援行動がスタート
全日本民医連の「福島被災地視察・支援連帯行動」がスタートしました。原発事故から四年が過ぎても復興のめどが立たない福島。そうした実態を伝える報道も減る中、風化させずに福島の被災者や仲間に寄り添うことをめざしています。三月一三~一五日の視察に同行しました。(田口大喜記者)
一一県から二二人が参加しました。冬季はいわき市を拠点に楢葉町、富岡町を行くコース。初日は、楢葉町へ向かいました。
楢葉町の仮設へ
楢葉町は二五〇戸の仮設住宅に三〇〇人が暮らしています。仮設住宅を訪問し、六人の被災者に震災発生時から現在までの体験を聴き、交流しました。
家を津波で流された高齢の女性は、放射能から逃れるためにさらに福祉会館や小学校の体育館などを転々としました。いちどは岩手の娘夫婦の家にも身を寄せましたが、遠慮と不自由さが苦痛で、一カ月と経たず避難所に戻ったそうです。段ボールで仕切った狭いスペースでの生活でした。仮設に入るまでの避難先は六カ所になりました。
「復興したという報道はたくさんあります。電車も道路も復旧したが、私たちの生活は苦しいままです。置き去りにされている感覚です」と語った浜通り医療生協の早川千枝子さんは、いわき市で避難生活中です。話をしてくれた被災者は途中で皆、涙しました。
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原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員の伊東達也さん(福島・浜通り医療生協理事長)が福島の現状を講演。震災から四年を経ても過酷な避難生活が続き、ストレスが増幅しています。増え続ける福島の震災関連死は一八六二人(今年二月時点)、地震や津波などの直接死の一六〇三人を超えてしまいました。伊東さんは「県内の原発一〇基全ての廃炉は県民の希望」と語りました。
原発から20キロ圏内へ
二日目は福島第一原発から二〇km圏内の富岡町へ。
同町は全域が避難指示区域になりました(現在は避難指示解除準備区域、居住制限区域及び帰還困難区域に変更)。家屋や商店が壊れたままの状態で残っていました。大破して転がった車とねじ曲がった鉄柱が津波被害の凄まじさを物語っていました。民家の中には、先ほどまで人が居たような生活感が残り、全てを置いて逃げた様子がうかがえました。
沿岸に建てられた慰霊碑に参加者たちは手を合わせました。
原発労働者の実態
原発労働者の実態も学びました。講師はいわき市議の渡辺博之さん(共産党)。原発労働者の観点から原発事故を語りました。
二〇一四年一一月の時点で、労働災害が前年の約三倍に増加。事故後はコスト削減の環境がトラブルの大きな原因でしたが、今はヒューマンエラーが増えています。
事故前に比べ被ばく線量も危険性もケタ違いに高まっているのに、下請けは一〇次、一五次まであるともいわれ、作業員の給料や危険手当は会社がピンハネ。不満は蓄積、意欲の低下を招いていること。事故当初からいた作業員は累積被ばく線量が蓄積し、線量の高い現場では働けないなどでベテラン作業員が現場を離れているのです。その結果、経験の浅い作業員の事故が多発しています。
「収束作業にあたる原発労働者の生活と健康も保障させつつ、原発ゼロを求めていきたい」と渡辺さんは締めくくりました。
議論と感想
グループワークでは、「予想以上に復興していない」「原発に反対できない雰囲気が作り出されている」「メディアに頼らず事実を広めたい」などの声が出ました。
放射線技師も多く参加。「原発事故後、被ばくに関する間違った知識で、X線検査を拒否する患者さんが増えています。私たちが正しい情報を伝えなければ」と、千葉・船橋二和病院の加藤伸次さん。「もっと原発事故のことを深く知りたい」と、参加したそうです。若い職員の顔も。「高速道路が通っただけで『復興』と言うのはおかしい。偏った情報に惑わされず、自分で考えて行動しないと」と、二年目の理学療法士・井島光さん(福岡・みさき病院)は語りました。
(民医連新聞 第1594号 2015年4月20日)