戦後70年 のこす 引き継ぐ 岐阜 「語り部」募り戦争体験冊子に
戦後七〇年の連載二回目は岐阜から。岐阜勤労者医療協会と岐阜健康友の会が昨年五月、冊子「戦争体験をカタチに!」を作りました。岐阜空襲やシベリア抑留、原爆体験を友の会会員二四人が語ります。「今の世の中は戦前と似ている」と語り部が声をそろえたことに衝撃を受けた職員。改めて「平和を守ろう」との思いを強くしています。(新井健治記者)
終戦間近の空襲体験を語ったのは、当時一二歳の宮崎光圀さん(81)。一九四五年七月九日午後一一時ごろ、B29一三五機が岐阜市街を空襲、九〇〇人近い死者が出ました。隠れていた防空壕付近に爆弾が落ち、慌てて外へ飛び出した宮崎さん。家族は散り散りになり、たった一人で火の海を逃げまどいました。「シャーという音をたて、焼夷弾がバラバラ降ってきた。直撃で死ぬ人、炎に巻かれて死ぬ人…」。
真っ赤に燃える市街地を朝まで呆然と見つめました。自宅に戻る途中、たくさんの焼死体が。親子で抱き合い炭になった遺体も目にしました。防空壕から掘り出した祖母の遺体は「まるで焼き芋のようだった」と振り返ります。
宮崎さんは「戦争はある日突然始まるのではない。秘密保護法などで外堀を徐々に埋め、気付いたら戦争反対を言えなくなっている」と指摘。軍国主義教育に洗脳され、天皇のために命を捨てるのが当たり前だった少年時代。「安倍首相は戦争する国づくりを着々とすすめている。徴兵制が始まってからでは遅いと、若い人に警告したい」。
声を聞くのは今しかない
「戦争体験者の生の声を聞く機会は今しかない」―。岩原田鶴子さん(ケアマネジャー)の一言から冊子作りは始まりました。「高齢者に生活歴を聞けば、必ず戦争の話になる。『次世代に伝えたい』との思いに応える時間は、限られています」。
岩原さんは友の会事務局の鬼塚美智子次長に相談。会員から語り部を募集すると、すぐに二〇人以上が名乗りを上げました。「安倍政権への危機感が強いことを実感しました」と鬼塚さん。
勤医協と友の会有志で昨年一一月に実行委員会を立ち上げ、職員一六人が聞き取りに参加。みどり病院の宮城正志さん(3六、事務)は新基地建設がねらわれている沖縄県名護市の出身です。「戦時下では“異常”が“日常”になる怖さを感じた。娘はまだ二歳。戦争への道は絶対に阻止したい」。
広島の被爆体験を聞いた同院の遠藤嶺医師(25)は「どこか“人ごと”だった戦争が間近に迫り、核兵器廃絶への思いを強くしました。地域医療を志す医師として、住民を良く知ることは診療技術の一つです」と言います。
友の会の戸崎光明会長は「歴史に逆行する動きがある中で、事実の重みを感じました。問われているのは歴史認識ではなく、史実そのもの」と強調します。
苛酷なシベリア抑留
シベリア抑留の体験を語ったのはMさん(90)。「生き恥をさらすようなもの。名前と写真は勘弁してくれ」と、今でも心の傷が癒えることはありません。
一九四五年二月、二〇歳で満州へ。終戦直後、旧ソ連軍に囚われシベリアの捕虜収容所に送られました。零下三〇度と極寒の地で強制労働。食料は馬の餌だったコーリャンが少量。多くの仲間が冬を越すことなく亡くなりました。「朝、起きたら隣の人が亡くなっていた。飢えと寒さと重労働…。耐えられない人からバタバタ死んでいった」と振り返ります。
「死体が一〇~二〇体ほどたまると、そりに乗せて森に運ぶ。ツンドラの大地は硬くて掘り起こせず、少量の土を被せるだけだった。多くはオオカミの餌になったのではないか」とMさん。
ようやく帰国できたのは三年後。抑留された六〇万人の一割以上が亡くなったそうです。「日本は豊かになったが、その裏には大きな犠牲があった。こんな経験はもう二度と、誰もする必要はない」と言い切りました。
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冊子の副題は“二度と戦争が起こらないよう伝えます”。「単に体験をまとめた資料ではなく、民主主義をカタチにしていくとりくみ。冊子を通して平和を守る具体的な行動につなげたい」と戸崎会長。「伝えることは簡単なようで難しい。戦後七〇年の節目は、多くの人に平和に関心を持ってもらうチャンス」と鬼塚さん。
冊子完成後、既に聞き取りをした二人が亡くなりました。冊子の第二弾に向け、実行委員会は四月に再始動します。一回目の実行委メンバー・華陽診療所事務長の松田英史さんは「ここ五年が勝負どころ。今度はもっと若い職員に関わってほしい」と期待します。
◆問い合わせは岐阜健康友の会(Tel〇五八・二四四・三五二二)へ
(民医連新聞 第1590号 2015年2月16日)