戦後70年 のこす 引き継ぐ 被爆体験、聴かせてください 青年たちの「ききとりプロジェクト」 兵庫
二〇一五年―。日本は敗戦から七〇年を迎えます。あの時、人々が未来に託した「反戦」「平和」を引き継ぎ、さらに次の世代に伝えていくために、私たちにはどんなことができるのでしょう。この節目の年にあらためて考えたい。
兵庫では、民医連の若手職員と地域の青年たちが、ハンディカメラを片手に地元に住む広島・長崎の被爆者を訪問。被爆体験やその後の人生を聴き取る「きき とりプロジェクト」を昨年から始めています。原爆投下からも今年は七〇年。被爆者が高齢化し、残された時間が少ないことを意識し、「一人ひとりの記憶や人 生をいま記録しよう」との思いから。青年たちがその先に見ているのは、核兵器も戦争もない世界です。九人目の聴き取りに同行しました。(木下直子記者)
昨年一一月三〇日、神戸市北区の住宅街に「ききとりプロジェクト(ききプロ)」メンバーの、橋本銀河さん(28)と垣本聖さん(29)の二人が向かいました。橋本さんは神戸医療生協の事務職員、垣本さんは地域の民青同盟のメンバーです。
話し手は、八三歳の大谷明子さん。戦争当時は兵庫県内の実家を出て、広島市近郊の親族宅に下宿しながら、広島市内の女学校に通っていました。爆心地から二・三km地点で被爆しています。
大谷さんに向けてビデオカメラをセット。七〇年前の広島市の地図も広げ、両者が向かい合います。
「年をとって、いろいろ忘れることが多くなりました。でも、原爆のことは別。『忘れない』のではなく、ゾッとするけれど『忘れられない』の。頭に焼き付いてしまって」。
話は、原爆が投下された八月六日の朝から始まりました。
大谷さんは親族宅に下宿して広島市内の女学校に通っていました。動員先の工場で被爆。投下三日目に帰宅するまで広島市内を歩き、その有様を「地獄だった」と語りました。半月後には被爆の影響とみられる症状で、生死の境もさまよいました。
成人後も「原爆にあたった」ことで健康不安は消えず、被爆者差別も体験しています。
最後に「戦争はイヤ。これまで一日一日を送るのに精一杯で。難しいことは分からないけれど、とにかくこれは理屈抜きに言えるんです。戦争は、二度としちゃダメよ」と、噛みしめるように語りました。
その瞬間の空気、気持ち 若い世代と分け合いたい
「来てくれて嬉しい」
話をひととおり終え、青年たちの質問を受けながら、大谷さんは顔をほころばせ「嬉しい」と何度も口にしました。
これまで大谷さんは、自分が被爆者であることをすすんで話すことはなかったそうです。被爆証言も過去に一度、老人クラブの企画で中学生向けに語った程度。
「あなた方のような若い人が、こんな活動をしていると知って感動しました。自分から話して歩くことはもうできないけれど、少しでも役に立ちたいと思っていたの」。
「景色、空気、気持ち…直接お話を聞くと、文字では伝わらないことも伝わってくる。語ってくれる被爆者への親近感も湧いてきます。これをもっと同世代と 分け合いたいです」と、橋本さん。橋本さんは長崎県出身ですが、民医連に就職して、核兵器や平和の問題に関心を持ち、活動するようになりました。
「ききプロ」のこと
ききとりプロジェクト(ききプロ)は、愛知県の青年たちがとりくんでいる「被爆体験聞き撮 りプロジェクト」をお手本に、二〇一四年春に始動。八月の原水爆禁止世界大会に地域から参加した青年や、原発事故後、関西電力前で毎週金曜日に抗議行動を 続けている「ZEROこねっと」のメンバーから持ち上がりました。「原発ゼロでは毎週動いているけれど、核兵器廃絶に関しても、もっとやれないか? 被爆 七〇年になるよ」。
そこに、兵庫民医連の青年ジャンボリーものりました。県青年ジャンボリー実行委員長の篠﨑結さん(薬剤師、東神戸薬局ひかり店)も、秘密保護法の強行な どに危機感を持ち「みんなで反対しなければ。でも、どうすれば後輩や同世代が関心を持つだろう?」と考えていた時でした。
篠﨑さんは入職一年目で原水禁大会に参加、被爆証言に衝撃を受けたことが平和の問題に目を向けるきっかけになりました。ききプロ立ち上げの提案に、自分のそうした体験を思い出しました。
実行委員会は毎月開き、活動の情報共有は、約三〇人が参加するLINEのグループで行っています。語り手探しなどには、兵庫県原水協や地域の被爆者の会 の力を借りています。これまでの聴き手はのべ五〇人、語った被爆者は八人。中には「若い人に残酷な話はできない」と詳細に触れずに終えたものの、後日 「もっと話したい」と変わり、二度目で強烈な体験を語った人もいます。
「ききプロが、何百回も人前で話してきたような『ベテラン』語り部だけでなく、ぽつりぽつりとしか話せない被爆者の元にも行こうとしているところが大 事」と、若者たちを見守る県原水協の事務局長・梶本修史さん。二〇年前は六五〇〇人いた県内の被爆者も、いまは三九〇〇人足らずに減少しました(表)。
梶本さんは「聴く側にとっては、被爆体験を引き継ぎ、被爆行政の改善の担い手を自覚する契機になる。語る側の高齢の被爆者にとっては『自分の体験や思い が次世代に伝わる』『私を忘れず、来てくれた』という喜びにもなります」と話します。
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ききプロでは、これまでの記録を今年ニューヨークで開かれるNPT再検討会議の代表者に託せないか、と考えています。
とりくんで八カ月。「何度も言われていることだけど『被爆体験は原爆が炸裂したその日で終わらず、一生続く』と実感した」と、垣本さん。
橋本さんは「個人的な野望ですが―」と前置きしつつ、「県内の被爆者全員から聴き取りたい」と話します。地元紙で紹介された記事を見て、「参加したい」 と連絡してきた高校生もいます。「聞き手を増やして、地域ごとで手分けしてとりくめば、“野望”ではなくなるかもしれない。全国にも広がっていけばなあ、 と思っています」。
証言
大谷明子さん
川に浮かんだいくつもの死体 私は「死ぬ」と噂され
その朝は「勤労動員」先の工場にいました。女学生といっても労働力としてかり出され て、ほとんど勉強できませんでした。8時15分は休憩で学友たちは外にいたのですが、私は本を読もうと一人屋内にいました。「B29だ」という声で窓の外 を見たら、ピカッとして、その後の覚えがなく、気づけば建物の下敷きでした。
這い出したものの、目がよく見えません。額の傷から血が流れ、ガラスや釘を踏んだ足も血だらけ。小学校に行くと、助けを求める人がいっぱい。「水を下さ い」と言っているおじいさんがいて、喉からは血が噴水のように出ていました。小学校を出てから雨にあい、白い夏服はドロドロに汚れました。あれは「黒い 雨」だったのね。
市街地から広がる火を逃れて奥の村へ。その夜は村に泊まり、翌朝親族宅をめざしました。市内は、どの川にもたくさんの死体がプカプカと浮いていました。 大きな牛や馬も、真っ黒に焼けていました。地獄です。その日は偶然会った友人の家に泊めてもらい、2日後ようやく帰宅しました。親戚は喜びました。私を探 して被爆直後の広島市内を歩き回ってくれていました。
ぽっかり開いた額の傷は、気が立っていたせいか、赤チンを塗る程度の手当てしかできなくても気にならなかった。8月15日には何を言っているかは分から なかったけれど、ラジオで天皇陛下の玉音放送を聴きました。
8月末、兵庫の父の迎えで帰省し、1週間足らずで熱が出ました。体温計の目盛りを振り切って計れない高熱が何日も続き、ひどい下痢も。医者も手のほどこしようがなく、私は「もう死ぬ」と近所で噂されました。
そんな状態からよく生き返ったものですが、半年は学校へも連絡できませんでした。女学校には翌年戻りました。校舎として工兵隊跡の半分潰れた建物を借り ていたので、授業はあまりなく、ガレキの片付けばかり。校内の土を除けていた時、腐ったカボチャのようなものが出たので「こんなところにボウフラ(カボ チャの方言)があった」と皆でつついたら、人間の頭蓋骨だったことも忘れられません。
卒業後は兵庫に戻り、結婚するまでお勤めもしていました。結婚話が出た時「あの人は原爆にあたっている」と夫の家では反対もあったそうです。「そんなこ と言うたら、広島の娘さんは結婚できへん」と夫が反論してくれて、破談にならずにすみました。
この年までよく生かされたものだと思いますが、元気ではなかった。鼻血はよく出るし、姉が不思議がるほど歯も弱い。白内障は主治医に原爆との関連を言わ れました。病気のたび「原爆にあたったせいかもしれない」と思ってきました。頭から離れないの。
息子が被爆二世の会に入りました。被爆者検診では、東神戸診療所に親子でお世話になっています。
この夏、娘が広島に連れていってくれました。市内を回ると涙、涙で。阪神大震災の年にクラス会をした時の学友たちは、その後たくさん亡くなりました。被 爆アオギリの下の語り部だった沼田鈴子さんも裁縫学校のお友だちでしたが、逝かれました。
原爆の他にも怖い目にあいました。空襲があると学校が終わるので、1時間かけて歩いて帰るのです。その途中で、アメリカの機銃掃射の標的にされ、溝に飛 びこんで逃げたりもしたわ。夜は灯りをつけると狙われるからと灯火管制で真っ暗。いまの若い人には想像もできない話よね。
日本被団協 木戸事務局次長にきく
被爆者から次の世代が「引き継ぐ」べきものは何か―
核兵器廃絶はいま世界の大多数の声になりつつあります。その声を広げてきたのはほかでもない、被爆者自身の渾身の訴えでした。いま、後の世代に何を伝えたいのか―。日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)の事務局次長・木戸季市(すえいち)さんにききました。
原爆被爆者がいなくなる日
二〇一一年に、被団協とその願いを共有する人たちで「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」を発足させました。被爆者や被爆者運動が残してきた資料の収集や保存、兵庫の皆さんが始めたような被爆証言の聞き取りと記録、発信にとりくんでいます。
原爆被爆者がひとりもいなくなる日はいずれ必ず来ます。しかし、核兵器が人類の頭上で初めて炸裂していらい、被爆者が求めてきた「核兵器の廃絶と平和」 という課題は、それが実現するまで決して消えることはありません。
私は五歳の時に長崎で被爆しました。五歳ですから大人ほど悲惨さは覚えていませんが、「被爆を記憶する最後の世代」と自覚し「いずれは何かしなければ」 と思ってきました。そして九一年、岐阜県の被爆者の会を再建し、被爆者運動を始めました。
運動の中で、先輩たちから被爆者の生き方を学びました。被爆のために心にも身体にもハンディを負い、どんな辛い状態でも、どこからエネルギーが出るのか と思うほど「ふたたび被爆者をつくるな」と動いている。「核兵器は、それを投下したアメリカ大統領に対しても使ってはいけないのだ」と理屈ではなく教えて いました。
伝えたいのは、 生き方
「継承」とは、被爆証言をただ単に伝えるということではありません。「核兵器をこの世からなくす。戦争をしない」という課題を「自分にとってどういう意味があるのか」と考え、自分の願いにすることです。被爆者は生き方を伝えたいのです。
残念ながら、私たちの願いはまだ実現しません。それどころか、いまの政権は再び戦争をしようと集団的自衛権の行使を容認し平和憲法の改悪までねらってい る。日本政府は、被爆者の要求をはねつけ、謝罪も補償もしません。そこには「戦争被害受忍論」がある。本当の反省がなければ、謝罪も不戦の誓いもありませ ん。
(民医連新聞 第1587号 2015年1月5日)