だから安保はいらない (1)暮らしの背後に 経済・文化にも米国が介入
一九六〇年に日本とアメリカ政府が結んだ「日米安全保障条約」。俗に“安保(あんぽ)”と呼ばれる軍事同盟は、米軍基地にとどまらず私たちの文化や経済にも深くかかわっています。安保破棄中央実行委員会による一二回の連載で考えます。
安保条約第二条には「国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め」とあります。米国は自国の貿易赤字を減らすため、繊維、鉄鋼、牛肉、オレンジ、コメなど対日貿易の自由化を迫り、日本農業に壊滅的打撃を与えました。
小泉政権が躍起になって実現した郵政民営化も、実は米国の要請。アメリカの保険資本参入のためです。TPPも同じ構図で、米国が日本経済へ介入する背景には安保があるのです。
意外に知られていないのは建築基準法の改定。米国は自国の木材輸出量を増やすため、三階建て以上の木造住宅を禁止していた日本の建築基準法を変更させました。安保は日本の住宅をはじめ文化にも影響を与えているのです。
在日米軍基地といいますが、条約に「基地」の文字はなく「施設及び区域」です。地上施設だけでなく海も空も含まれるからです。たとえば沖縄周辺の五万四 〇〇〇平方キロに及ぶ米軍の訓練水域は立ち入りが制限され、漁業も妨害しています。また、首都圏など一都八県の上空には「横田エリア」という米軍専用空域 があります。羽田発着の旅客機は米軍機と衝突の危険があるうえ、飛行ルートにも大きな制限を受けています。
国民が知らなかった条約
安保を歴史から考えてみましょう。現在の安保条約は一九六〇年に改定された新・安保条約です。旧・安保条約は五一年にサンフランシスコで結ばれ、 日本側は当時の吉田茂首相ただ一人が署名しました。これに先立ち日本の独立を認めたサンフランシスコ講和条約も結ばれたのですが、こちらは吉田首相を含む 日本側六人の全権代表が署名したのです。
なぜ、吉田首相一人だったのか。条約の内容が事前に公表されなかったため、全権代表の中に署名に反対する人がいたからです。もちろん、国民は誰も知りません。サンフランシスコ講和条約と旧安保条約は同じ九月八日の締結ですが、“歴史の表と裏”の関係といえます。
米国にとって日本は旧ソ連と対峙する重要な軍事拠点で、基地が維持できなければ独立も認めない方針でした。当時の在日米軍基地は二八二四カ所もありましたが、旧安保条約でほとんどが存続。条約は基地を残す“手形”でした。
米国は旧安保条約を盾に、さらに基地を拡張しようとしたため、国民と衝突します。五三年には、石川県内灘の砲弾射撃場建設計画に反対する「内灘闘争」が 起きました。本土独立後も引き続き米軍占領下におかれた沖縄では、「銃剣とブルドーザー」で土地が取り上げられ、県民は大規模な反基地闘争を繰り広げま す。
五七年には群馬県の相馬原演習場で、日本の主婦が米兵に射殺される事件が起きます。日本は安保に阻まれて捜査も裁判もできず、大きな社会問題になりまし た。立川基地(東京)の拡張に反対し、基地内に立ち入った労働者らが告訴された砂川事件も有名です。東京地裁の伊達裁判長は五九年、「米軍駐留は憲法違 反」として、被告全員を無罪としました。有名な「伊達判決」です。
米国は日本国民の怒りを受け、安保条約の改定に踏み出します。
(民医連新聞 第1569号 2014年4月7日)
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